満州国皇后として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 06:28 UTC 版)
満州事変勃発後の1931年暮れ、溥儀が日本陸軍から「大清帝国の復興である新国家(満州国)」の皇帝となるよう要請を受け、これを受諾、天津を脱出して満州へ移住する。静園から溥儀が去ったことを知った婉容は溥儀から満州に来るよう求められるも、皇后の身分にも夫の元へも戻る意思がないと断った。しかし、関東軍の命を受けた金璧輝(川島芳子)が「皇帝が大連で亡くなったため葬儀に出席してもらいたい」と嘘をつき、満州に連れ出した。 溥儀が2年間の執政を経て1934年3月1日に皇帝に即位すると、婉容もまた皇后となるが、皇后に相応しくないと見なす関東軍の意向により、公式の場に姿を見せることはほとんどなく、告天礼の儀式にも即位式にも参列することは叶わなかった。同年6月7日、訪満していた秩父宮雍仁親王による勲章伝達式に際しても、関東軍は婉容を謁見させたくなかったが、「伝達式には皇帝・皇后ともに出席すべし」との日本政府の主張により、例外的にこれを受け入れた。婉容は勲一等宝冠章受賞の儀式でもその後の宴でも、さらに12日に行われた満州国皇帝による招宴の席でも、噂されていたような阿片中毒の症状を見せることはなく、健康そのものの様子で儀式に臨み、宴の女主人役を務めた。 しかし、自由のない閉塞的な暮らしと、皇后としての振る舞いも許されない状況下で阿片への依存は深まり、1935年頃には新しい衣料を購入することもなくなった。溥儀の弟・溥傑の妻であった嵯峨浩は、1937年秋頃の様子として、阿片中毒の影響から、婉容の食事の様子に異常な兆候があったと自伝に記している。 見ていると、七面鳥のお皿に何度も何度も手を伸ばされるのです。あまりの健啖ぶりに驚きましたが、(中略)あとでわかったことですが、皇后は阿片中毒にかかっておられ、意識が定かでないことも多かったのです。そのようなときには、いくら召し上がってもわからないということでした。 満洲国末期に婉容の姿を見た者によると、彼女はボロ同然のすり切れた服をまとい、髪は乱れたまま、化粧はおろか顔を洗うこともなくなり、阿片中毒と不健康な生活のため視力をほとんど失い、自力で立ち上がることすらできなかったという。ついには精神錯乱を来していたというが、相変わらず溥儀は手をさしのべることもなく、むしろ離婚と廃位を考えていたと言われる。
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