満州国軍政部最高顧問時代
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1931年(昭和6年)、満州事変が勃発。翌1932年(昭和7年)満州国が成立すると、多田は満州国軍政部最高顧問となり、満州国軍の育成を任された。もっとも、国軍と言っても、その実態は東北四省の各軍閥の私兵を寄せ集めたに過ぎず、多田は任務に悪戦苦闘することとなる。それでも多田は満州国の「五族協和」の理想に共感し、「日本が指導的立場にあっても、力あるものは謙虚に心構え、弱いものの立場を考慮する」「支那の実情を知らない日本人は過った優越感を持っているため、満州国への入国は最小限に留める」「現地の風俗慣習を尊重し、日本的なやり方を押し付けない」との方針で建軍に力を尽くした。
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