満州族清国との国交とは? わかりやすく解説

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満州族清国との国交

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/23 10:16 UTC 版)

チベットの歴史」の記事における「満州族清国との国交」の解説

ダライ・ラマ5世幼い頃中国では明が政権握っていたが、その北方では満洲民族力を付けていた。「満洲」は彼らの自称であり、文殊菩薩マンジュシュリー)の「マンジュ」に漢字当てたもので、仏教奉ずる民族だった。満洲民族は西のモンゴル高原諸勢力次々と従え1636年に清を建国1637年には李氏朝鮮従え1644年には中国併合した。この時の清の皇帝順治帝であったチベットもこの新興勢力無関心だったわけではない当時はまだダライ・ラマ政権確立する前であり、1640年代ダライ・ラマ5世始めとするチベットの有力勢力が、清の支援を受けるべくそれぞれ使者送っている。 清としてもチベット仏教は大事であったが、モンゴル高原諸勢力深くチベット仏教信じており、彼らの懐柔のためにもチベット仏教管理は重要であった順治帝何度もダライ・ラマ5世首都北京出てくるよう言い、1650年には清か贈り物添えた代表団派遣されている。しかしこの頃にはダライ・ラマ5世権力と権威確立されており、清を無理に訪問する理由無く、しばらくは断り続けた1652年にようやくダライ・ラマ5世北京訪れた順治帝は、異民族への待遇としては異例なことに、自ら北京から数日の距離まで出向いてダライ・ラマ5世迎えた順治帝ダライ・ラマ5世に対して改めダライ・ラマ称号贈りダライ・ラマ5世順治帝文殊皇帝称号与えている。このとき、ダライ・ラマ5世清国皇帝従属したか、それとも両者対等対面であったのかは、現代でもよく議論にされる。当時清国側チベット側の記録にすでに認識食い違い見られる1682年に、ダライ・ラマ5世が死ぬと、後継者争い起き摂政のサンギェ・ギャツォ(英語版)らがダライラマ5世宗教的政治的権威を自らが継承したという自己神格化をも試みグシ・ハン一族排除目指した。

※この「満州族清国との国交」の解説は、「チベットの歴史」の解説の一部です。
「満州族清国との国交」を含む「チベットの歴史」の記事については、「チベットの歴史」の概要を参照ください。

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