満州時代まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/03 15:35 UTC 版)
1928年に中学を卒業。卒業後は定職にも就かず、日本画家に入門したものの、旦那衆の宴席で即興の絵を描いて金をもらう師匠たちの姿に失望して短期間で辞めてしまう。1929年頃には築地小劇場に熱中、舞台芸術家を志した。1931年には3か月だけ日本プロレタリア美術家同盟の研究所に所属し、講師の八島太郎からデッサンの教えを受けた。1932年、22歳で義姉を頼って満州国大連市(現在の中国遼寧省)に移住。大連では義姉の夫が運営する運送会社に住み込みで働く。ある日街頭で見かけた『コドモノクニ』(1932年6月号)の初山滋による表紙絵に強く魅せられ(自身でその号を購入した)、再び絵を描き始める。大連在住の画家・甲斐巳八郎と知り合い、1933年には甲斐らの起こした「満州郷土色研究会」に参加する。また、雇い主の知り合いの娘と勧められて交際を始め、1934年6月に結婚した。 満洲電信電話会社(満洲電電)がアメリカ合衆国から輸入する機材の通関業務を勤務先が請け負った縁で、先方から「絵の描ける人材」としてスカウトされ、1936年に入社、満州電電本社のあった新京(現・吉林省長春市)に家族とともに移住した(もっとも入社から5年ほどは絵を描く仕事は来なかったという)。新京では同じ満洲電電に勤めていた森繁久弥、満州電業の芦田伸介、さらに満州で活動していた文化人(檀一雄・木山捷平・逸見猶吉・北村謙次郎・長谷川濬ら)などと交友を持った。 末吉の絵はほとんど独学であったが、1940年の第3回満州国美術展覧会(国展)の東洋画(日本画)で特選(大臣賞に次ぐ次点)となったのを皮切りに、1942年の第5回まで3回連続して同部門特選となり、日本画家としての地位を確立した。これにより、満洲電電でも広報班で宣伝ポスターなどの業務に就くようになる。また、満州時代は旅を好み、一人であちこちに旅行した。1943年には、満州国政府が企図したチンギス・ハーン廟の壁面壁画の取材として内モンゴルを1か月以上にわたって他の5名のメンバーとともに旅行し、多くの写真を残す。帰路には雲崗石窟にも立ち寄った。 1945年8月のソ連対日参戦後も一家で長春となった新京にとどまる。1946年には日本人向け新聞を刊行していた東北導報社から刊行された『児童讀本』の表紙や挿絵を描いた。ソ連軍撤退後に八路軍(中国共産党軍)が進駐すると、他の日本人画家とともに共産党の宣伝ポスター制作を命じられる。その後中国国民党軍が代わって進駐し、共産党占領下の仕事が非難されかかるが、蔣介石のポスターを描いて難を逃れた。国民党軍からの依頼で絵画指導などの留用者という身分になるものの、あてがわれた仕事はいずれもうまくいかなかった。次に指示された仕事を拒否して留用者の地位を失う。国共内戦の危険もあり、末吉は帰国を決意する。1947年8月下旬に長春を出発、途中奉天で40日間収容所に入れられ、9月29日に胡蘆島から出航、10月7日に佐世保港に上陸したが、船内で発生した麻疹のために20日以上も隔離された後、熊本県人吉市にあった妻の母親の実家に到着した。しかし、世話ができないという先方の意向に沿い、10日ほどの滞在で出発して11月11日に東京に戻り、月島にある兄の家に身を寄せた。
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