絵を描き始める
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 07:59 UTC 版)
数え18歳、西大寺で沙弥(見習い僧侶)として修行を始めた文観は、絵画の練習も行うようになった。 真言律宗は絵筆に巧みな僧侶が多く、そもそも宗祖である興正菩薩叡尊自身が、画僧としての才能もあったと言われる。着色画こそ現存していないものの、『図像抄』(嘉禄2年(1226年)、奈良県宝山寺蔵)では、叡尊の筆による図像が載っており、宗祖自身が20代のころから既に絵師としても活躍していたのである。また、文観の先輩に当たる律僧の一人は、「日課文殊」という、日課の修行として文殊画像を描く修練を行っていた。文観もまた、こうした土壌に育てられて、絵を習い始めたと考えられ、やはり日課文殊の作品を残している。 仏教美術研究者の内田啓一は、文観はこのころ、その画技を見込まれて、唐を代表する高僧で法相宗の祖である慈恩大師の画像を描く絵師に抜擢されたのではないか、と推測している。論拠の第一として、『感身学正記』によれば、建長3年(1251年)の時点で、玄奘三蔵と慈恩大師のどちらの画像を制作するか叡尊の周囲で議題が持ち上がり、このときは三蔵法師の方が選ばれたものの、慈恩大師の画像を作る機運が西大寺内で高まりつつあった。第二として、文観入滅のおよそ300年後、狩野派の絵師である狩野永納が、文観による慈恩大師の画像を観て感嘆したと書き残しており(『本朝画史』(延宝6年(1679年)))、永納がそれをどこで観たのかは不明であるが、文観による慈恩大師画像が17世紀まで残存していたことが知られる。したがって、これら二つの記述を合わせれば、文観がこのころ西大寺内で慈恩大師の画像を描いていたとしても、不思議ではないのではないか、としている。
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