フィリップ美公没後の郵便馬車のルート
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「フランチェスコ・デ・タシス1世」の記事における「フィリップ美公没後の郵便馬車のルート」の解説
1506年9月25日にフィリップ美公がブルゴスで没すると、状況は微妙なものとなった。マクシミリアン1世は、娘であるマルグリット・ドートリッシュと孫のブルゴーニュ公シャルル2世(後のスペイン国王カルロス1世、神聖ローマ皇帝カール5世)にネーデルラントを委ねた。このため、ふたつの異なる統治機構から郵便事業をそれぞれ委ねられた責任者たちは、それぞれの統治者から異なることを命じられ、以前と同様の効率を発揮できなくなることもしばしば生じた。 1516年1月23日にフェルナンド2世が没すると、カルロス1世はナポリとシチリアも手に入れた。カルロス1世はスペインに赴く際に、タシスとジョヴァンニ・バッティスタを随員 (aide et adioint) として引き連れ、その後、11月12日に、ふたりと新たな郵便事業の契約を交わして、これらの地域の郵便主任に任じた。 こうした状況によって、新たなルートが開設された。 ブリュッセル=ブルゴス:7日(冬季は8日) ブリュッセル=ローマ:10日半(冬季は12日) ブリュッセル=ナポリ:14日(冬季は15日半) 郵便事業はその後も拡充が続き、タシス家の収益も拡大し、1805年まで一族の主たる収入源となった。 1512年、タシスは、帝国貴族の称号を許され、以降、一族はドイツ貴族として社会的地位を高めていくことになった。この年、タシスは、ドロテア・ルイトヴォルディ (Dorothea Luytvoldi) と結婚した。
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