「皆実新開」の時代
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「皆実町 (広島市)」の記事における「「皆実新開」の時代」の解説
皆実町の起源は江戸時代初期に広島湾島に造成された埋め立て地「皆実新開」に遡る。当時、遠浅の広島湾に浮かぶ島嶼であった比治山および仁保島(現・黄金山)の間には干潟が広がっていたが、1662年(寛文2年)、広島藩により比治山から仁保島の大河浦(現在の大河)にかけて築堤がなされ、翌1663年にはこの区域の西半に仁保島西新開、東半に仁保島東新開(のち「東新開」。現在の南区霞・東雲)のふたつの新開地が造成され、広島城下「新開組」に属した。1699年(元禄2年)に地詰めが行われた西新開は、1821年(文政4年)に至って村民の願い出により「皆実新開」と改称したが、当時この新開地に居住し農業を営む住民はきわめて少なく、藩による耕作も行われた。なお、当時の皆実新開(のちの皆実村→(大字)皆実)は現在の皆実町のほか近隣の出汐・旭・翠および比治山本町の一部など広範な町域を含んでおり、1933年の町名変更までこの境域が維持されたため、元町域であった地区の施設の名称にも「皆実」の名が残されている
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