「皆実村」から「皆実町」へ
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「皆実町 (広島市)」の記事における「「皆実村」から「皆実町」へ」の解説
皆実新開は明治維新後の廃藩置県を経て「皆実村」となり、広島市制の施行(1889年)に伴い「(大字)皆実」、ついで大正期の1916年になって「皆実町」に改称された。この間、この地域は大きな変貌を遂げることになった。皆実新開の造成以来、この地区は広島湾に南面していたが、1884年に至って南に宇品港(現・広島港)の築港および宇品新開(現・南区宇品)の造成が行われることになり、広島市街と築港・新開地を結ぶ宇品新道が村内を縦断する形で建設されたのである。完成後の宇品港が日清戦争開始により軍港として整備されると、比治山の南側には多くの陸軍施設が立地されるようになり、村内(現・皆実町1丁目)にも電信第二連隊が駐屯した。さらに1910年には広島ガスの本社および工場、1922年には専売局の煙草製造工場がそれぞれ現在の皆実町1丁目・2丁目に移転・立地し、特に前者の施設であるガスタンクは現在に至るまでこの地区のランドマーク的存在となっている。産業面の変化においては、明治初期の村の主要な産物は棉花であったが、明治20年代の外綿輸入により衰退に向かい、代わって明治中期から大正初期までレンコン栽培が拡大し。蓮田はこの地区の代表的景観となった。1933年(昭和8年)になってこの地区では町名の変更が実施され、町域の東部分が出汐町および旭町、南部が翠町として分立した。第二次世界大戦が開始されると、軍事輸送強化のため宇品通りに沿って広島電鉄皆実線が敷設されたが、1945年8月6日の原爆投下は、爆心地から約1.7〜2.5kmにあったこの町にも大きな被害を及ぼし、特に2km圏内に入っていた京橋川沿いの地域は全壊全焼ないし全壊地域となり、その他の地域も半壊地域となった。被爆時の熱線により広島ガス工場のガスタンクに付着した階段やバルブホイールの陰影は戦後、原爆十景の一つに選ばれている(現存しない)。
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