隣接地との違い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/05 14:51 UTC 版)
「アップランドサウス」の記事における「隣接地との違い」の解説
ディープ・サウスは概して歴史的に綿花との結びつきがあった。1850年までに、「コットン州」という言葉が通常に使われ、ディープ・サウスとアップランド・サウスの間の違いが認識された。重要な相違点は、ディープ・サウスのプランテーションスタイルによる換金作物農業(主に綿花、米、砂糖)であり、大規模農園で働くアフリカ系アメリカ人奴隷を使い、プランテーション所有者は町や都市に住む傾向があるという形態だった。このプランテーション農業のしくみは当初西インド諸島で開発され、サウスカロライナ州やルイジアナ州に導入され、そこからディープ・サウス中に広まった。ただし、土地の事情によってそのような仕組みを使えないという例外はあった。町と田舎がはっきり分かれていること、少数の換金作物を集中して使うこと、および奴隷人口の高い比率という要素は全てアップランド・サウスと対照的であった。バージニア州やその周辺地域はアップランド・サウスやディープ・サウスの双方とも異なる特徴があった。その歴史は西インド諸島のプランテーションに遡り、初めからタバコが換金作物であり、アフリカ人奴隷を広く使うようになったが、町や都市の早くからの増殖という点など、ディープ・サウスの多くの特性とは異なるものを持っていた。 奴隷の使い方が異なっていた結果として、アップランド・サウスとディープ・サウスの境界は、今日でもなおアフリカ系アメリカ人の人口比率を表す地図を見れば明らかである。ブラックベルトという言葉は当初綿花栽培に特に適したアラバマ州の黒い土壌地域(アラバマ州のブラックベルト)を指して使われたが、今日ではアフリカ系アメリカ人の人口比率が高い南部地域を指して使うのが普通になってきた。対照的にアップランド・サウスは当初から奴隷制との関わりが少なかった。 さらに、ディープ・サウスのコットン・ベルトはインディアン(主に、チェロキー族、クリーク族、チカソー族、チョクトー族およびセミノール族のいわゆる文明化五部族)に支配されており、十分な力を保有して辺境の開拓者が入ってくることからその地域を守っていた。ディープ・サウスの綿花ブームは、インディアン達が19世紀初めに西部に強制移住させられるまでは起こらなかった。対照的に、アップランド・サウス、特にケンタッキー州とテネシー州は18世紀遅くにインディアンの抵抗と辺境開拓の現場であった。かくしてディープ・サウスの大部分で全体にわたる植民が行われる前に、アップランド・サウスでは既に植民が行われ、特別の開拓の様態が出来上がっていた。 アップランド・サウスと、南部大西洋岸やコットン・ベルトの低地との違いはしばしば、州内で地域間の緊張関係や紛争に繋がった。例えば、18世紀遅くに、ノースカロライナ州やサウスカロライナ州の高地「へき地」では人口が増大し、これら地域のアップランド南部人の数が、古くからあり、生活も安定し、富裕な海岸地域の人口を上回った。ある場合には、ノースカロライナ州の「世直しの戦争」のように2つの地域の紛争が戦闘沙汰になった。後には類似した経過を辿って西部の州でも人口の偏りが起こった。例えば、アラバマ州北部ではテネシー州から来たアップランド南部人によって開拓され、一方アラバマ州南部はディープ・サウスの綿花ブームで中核地域の一つであった。南北戦争の間、アップランド・サウスの幾つかの地域はアメリカ連合国に対する抵抗で注目された。バージニア州西部の高地は結果としてウエストバージニア州になったが、新州の半分の郡はむしろアメリカ合衆国からの脱退を主張する者であり、戦争の期間を通じてゲリラ活動が続いた。ケンタッキー州とミズーリ州は北軍に留まったが、内部抗争で疲弊した。テネシー州東部のアパラチア山脈南部地域およびアラバマ州北部とジョージア州北部の一部は住民が北部寄りの感情を抱いていることで広く注目された。
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