辺境伯領の設置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 00:49 UTC 版)
「モラヴィア辺境伯領」の記事における「辺境伯領の設置」の解説
1182年に神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世赤髭王はボヘミアの政情に干渉し、ズノイモ公コンラード3世オタを辺境伯に昇進させることで継承問題を妨害した。 この状態は短期間で終わった。1197年にボヘミア公ヴラチスラフ3世が弟のオタカル1世との間で自身のボヘミア公位放棄とボヘミアの臣下としてのモラヴィア辺境伯領拝領という形で継承問題を解決したのである。モラヴィアはボヘミアの地(1348年以降はボヘミア王冠領の一部となる)に留まり続け、後にオタカル1世はローマ王フィリップから世襲の王号を獲得し、それは1212年のシチリアの金印勅書で認められた。オタカル1世の孫であるオタカル2世が1278年のマルヒフェルトの戦いで敗北すると、その対抗者であったルドルフ1世はモラヴィアを獲得したが、5年後にオタカル2世の息子で後継者であったヴァーツラフ2世に返還した。
※この「辺境伯領の設置」の解説は、「モラヴィア辺境伯領」の解説の一部です。
「辺境伯領の設置」を含む「モラヴィア辺境伯領」の記事については、「モラヴィア辺境伯領」の概要を参照ください。
- 辺境伯領の設置のページへのリンク