辺境伯時代
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1412年から、初期ゴシック様式の教会に、防衛塔兼鐘楼および防衛壁が築かれた。教会には1450年に側廊が増築された。1449年から1450年の第一次辺境伯戦争でツィルンドルフはニュルンベルク軍によって完全に焼き払われたが、その後すぐに再建された。1457年に最初の町村令が施行された。この「ゲマイン=ブリーフ」(牧草地令、様々な使用権、警察の規制を含む)は、辺境伯領とニュルンベルクの領主ならびにその臣下が平和的な共存を確立するのに役立った。この他にドルフマイスター(村長)が選ばれ、就任した。ローマ=ドイツ王マクシミリアン1世の1495年のレーエン文書には Zyrndorff という表記がなされている。 おそらく1510年にツィルンドルフの教会は、守護聖人をクレメンスとブラシウスから、聖ロクス(ペストから護るとされた聖人)に変更した。1532年に、村の半分と教会が、教区の記録ととも火災の犠牲となった。 ブランデンブルク辺境伯と帝国都市ニュルンベルクとの間で確認された1580年の市町村令により、ツィルンドルフの自治が始まった。1604年、辺境伯家の遺産分割に伴い、この村はブランデンブルク=アンスバッハ侯領となった。 三十年戦争でツィルンドルフは1632年7月18日から9月22日まで皇帝軍の元帥アルブレヒト・フォン・ヴァレンシュタインの軍営となった。この軍は1632年9月3日に、アルテ・フェステの戦い(ドイツ語版、英語版)でスウェーデン王グスタフ2世アドルフの急襲を受けた。ツィルンドルフ住民の約2/3がこの戦争の犠牲となった。住民の数が戦前のレベルに復するには、約75年を要した。1648年以後の復興により、木組み建築や砂岩建築を有する現在の街の景観が形成された。 1674年にブランデンブルク=アンスバッハ辺境伯ヨハン・フリードリヒはブルワリー「ホーホフュルストリヒ・ブラウハウス」を開設した。その後、針金製品製造、織布、木地師、靴製造業者など、他の業者が定住した。 18世紀の終わり頃、ツィルンドルフには121戸があった。高等裁判権はブランデンブルク=アンスバッハ侯領のオーバーアムト・カードルツブルクが行使した。行政権はカステンアムト(財務局)・カードルツブルクおよび帝国都市ニュルンベルクのランデスアルモーゼンアムト(救貧局)が保持した。土地の所有権はカステンアムト・カードルツブルク、ツィルンドルフの教会と教団、帝国都市ニュルンベルクのランデスアルモーゼンアムト、シュリュッセルフェルダー=シュティフトゥング、聖クララ修道院、ヴァルトアムト(森林局)・ラウレンツィ、レッフェルホルツ家や、ニュルンベルクの都市貴族エプナー家、ホルツシューアー家、ヘルル家、クレース家、レッフェルホルツ家、ムル家、トゥッヒャー家、フォルマカー家、リーテリシェ・シュティフトゥング・コルンブルクが有していた。 1791年/1792年に、最後のブランデンブルク=バイロイト辺境伯カール・アレクサンダー(ドイツ語版、英語版)は自らの領邦をプロイセン王国に譲渡した。これによりツィルンドルフはプロイセン領となった。この当時、この村には121戸があった。1801年に教区監督本部がランゲンツェンからツィルンドルフに移された。これによりこの集落はその後、周辺地域の中心的な教会所在地となった。1885年にツィルンドルフの教区監督本部はフュルトに移転した。
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辺境伯時代
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「ハインリヒ3世 (マイセン辺境伯)」の記事における「辺境伯時代」の解説
1221年に父が死亡した時はまだ6歳だった為、母方の叔父のルートヴィヒ4世(聖人伯)の後見下で、父の後を承けてマイセン辺境伯に就任した。叔父が1227年に亡くなった後は、ザクセン公アルブレヒト1世が後見役を継いだ。1230年には成人を宣言し、1234年にオーストリア公レオポルト6世の娘コンスタンツェ(コンスタンティア)と結婚した。 1237年のプロイセンへの十字軍に参軍して初陣を経験し、その後すぐにブランデンブルク辺境伯ヨハン1世及びオットー3世と私闘状態となった。結局、ハインリヒ3世は故意に逃走し、下ラウジッツから東へ向かいベルリンを通り越して支配者の明確でない地域に進軍したのだった。1245年にはケペニック及びブランデンブルク郊外のテルトウでの長い戦いの後、撤退しなければならなかった。しかし彼は同じ頃、シードロ地方で勝利し、フュルステンベルク(現、ブランデンブルク州アイゼンヒュッテンシュタットの一市区)を創設した。 神聖ローマ皇帝とローマ教皇との戦いでは、ハインリヒ3世は皇帝派であることを明言していた。フリードリヒ2世は、これに感謝して、1242年にテューリンゲン方伯とザクセン宮中伯の地位を与え、1243年にはフリードリヒ2世の娘マルガレータとハインリヒ3世の長男アルブレヒトとの婚約が交わされた。
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