西インド諸島とメキシコ湾岸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/09 05:43 UTC 版)
「アメリカ独立戦争におけるスペイン」の記事における「西インド諸島とメキシコ湾岸」の解説
カリブ海では、七年戦争の時にハバナを占領したイギリス軍のキューバ遠征を思い出して、イギリス軍による可能性のあるキューバ上陸を阻止することに主な努力が向けられた。その他の目標としてはスペイン領フロリダ(1763年にイギリスが西フロリダと東フロリダに分割していた)の再占領と、ベリーズにおけるイギリスを巻き込んだ製材業の論争を解決することだった。 アメリカ本土ではスペイン領ルイジアナの総督ベルナルド・デ・ガルベスがミシシッピ川流域にあるイギリス軍の砦に対する一連の攻勢を率い、まずマンチャックのビュート砦を占領し、ポンチャートレイン湖の湖上戦ではイギリスの艦船を捕獲し、続いて1779年と1780年にはバトンルージュ、ナチェズおよびモービルを降伏させた。1780年のイギリス領西フロリダの首都ペンサコーラを占領するための遠征ではハリケーンのために挫折したが、ガルベスの軍隊は1781年のペンサコーラの戦いでイギリス軍に対して決定的勝利を奪い、西フロリダ全域をスペインの支配下に置いた。このことで補給のための南側経路を確保し、ミシシッピ川を経由するアメリカ合衆国西側辺境へのイギリス軍による攻勢の可能性を鎖した。 スペインが参戦した時、イギリスもカリブ海では攻勢を採り、スペイン領ニカラグアへの遠征を計画した。サンフェルナンド・デ・オモアに足場を築こうとしたイギリスの試みは1779年10月に撃退され、ニカラグアのサンフアン砦に対する1780年の遠征は初め成功したが、黄熱病など熱帯性伝染病のために軍隊の大半を失い、ジャマイカまで撤退することになった。 スペインはこれらの成功に続いて攻勢を続け、1782年には戦闘なくしてバハマ諸島を占領した。1783年、ガルベスはキューバからジャマイカ侵略の準備をしていたが、イギリスが停戦を求めた時にこれらの計画は中断された。
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