さらなる南極遠征計画
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 09:20 UTC 版)
「ウィリアム・スペアズ・ブルース」の記事における「さらなる南極遠征計画」の解説
1910年3月17日、ブルースは王立スコットランド地理学会に、新しいスコットランド南極遠征の計画を提出した。その計画はコーツランドの中あるいは近くで越冬する隊を想定し、一方で船は大陸の反対側ロス海にも別のグループを運ぶこととしていた。2年目にコーツランドの隊が大陸を徒歩で横切って南極点を通過し、ロス海の隊が南に進んでコーツランド隊と落ち合い帰還を支援することになっていた。この遠征では広範な海洋学など科学的研究も遂行することになっていた。総費用は約5万ポンド(2014年換算で445万ポンド)と推計していた。 王立スコットランド地理学会はこの提案を支持し、またエディンバラ王立協会、エディンバラ大学、その他スコットランドの機関も同様だった。しかし、タイミングが悪かった。ロンドンの王立地理学会はスコット大佐のテラノバ遠征に掛かりきりであり、ブルースの計画に何の興味も示さなかった。裕福な資金提供者も出てこなかった。資金的裏付けを求めて政府に対して執拗に強力なロビー活動を行ったが、無駄だった。ブルースはいつも通り、その努力が年寄りだが今も影響力を持つマーカムに邪魔されていると疑った。最終的にその計画は実現できないことを認め、アーネスト・シャクルトンへの寛大な支持と助言に切り替えた。シャクルトンはブルースの計画に類似した帝国南極横断探検隊の計画を1913年に発表した。シャクルトンは政府から1万ドルを受け取っただけでなく、民間からも多額の寄付を集めた。その中にはスコットランドの工業資本家ダンディのジェイムズ・ケアード卿からの24,000ポンドも入っていた。 シャクルトンの遠征は英雄的な冒険だったが、その主目的である南極大陸横断には完全に失敗した。1916年にその遠征隊の救援が必要になったときに、ブルースは救援委員会から相談を受けなかった。ブルースは「私自身は、ツィードの北にあるので、彼らは死んでると思ったに違いない」と記していた。
※この「さらなる南極遠征計画」の解説は、「ウィリアム・スペアズ・ブルース」の解説の一部です。
「さらなる南極遠征計画」を含む「ウィリアム・スペアズ・ブルース」の記事については、「ウィリアム・スペアズ・ブルース」の概要を参照ください。
- さらなる南極遠征計画のページへのリンク