さらなる募集措置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/29 03:57 UTC 版)
「イギリス自由軍団」の記事における「さらなる募集措置」の解説
アメリーの失敗後、ドイツ軍部では一層と英国人義勇兵計画に力を入れ、英軍戦争捕虜からの募集を開始した。当時、ドイツ軍捕虜収容所における捕虜の生活は非常に厳しいものであったが、ドイツ軍部ではこれを利用して潜在的な志願者の調査を試みた。この為に作られた特別収容所が、第3D捕虜収容所(英語版)近くに設置された休暇収容所(Urlaubslager)と呼ばれた施設である。休暇収容所に勤務する看守は全員が英語話者であり、所長を始めとする幹部らはいずれも情報将校であった。看守および幹部は捕虜らの会話から国家社会主義への傾倒や英国への反発といった兆候を探り、潜在的志願者リストを作成していった。この計画の中で、ジョン・ブラウン(英語版)元英陸軍軍曹が最初の志願者となった。 ブラウンは戦前に英国ファシスト連盟に所属しており、一方では熱心なキリスト教徒としても知られた。彼は1940年のダンケルク撤退戦の際に囚えられた捕虜の1人である。収容所では作業所の職長を務め、ドイツ当局からは模範的捕虜として一定の信頼を置かれていた。また1943年には休暇収容所における捕虜長(Lagerleiter)に任命されている。 しかしその裏では捕虜の生活を向上させるべく収容所内で闇市的システムを作り上げ、看守らとの闇取引を行なったり、MI6に対して爆撃目標の情報を示す暗号文を送るなどしており、決してナチス・ドイツに心から恭順してはいなかった。 ドイツ軍部は徴募活動を成功させるべくさらに信頼性の高い英国人を探した。そうして見つかったトーマス・クーパー(英語版)も元英国ファシスト連盟メンバーで、1939年の第二次世界大戦勃発以降もドイツ国内に暮らしており、1943年から英国人義勇兵募集計画に参加した。彼はかつてLSSAH連隊や髑髏師団に一兵卒として参加した経験があり、ブラウンとは違いNSDAPの掲げる国家社会主義への忠誠が証明されていた。クーパーは収容所内で小規模な親独グループを結成する事に成功するが、やはりその規模には限界があった。結局、200名いた休暇収容所収容者の中で国家社会主義への忠誠が確認され、なおかつドイツ軍人として任務に耐えうると判断され、部隊への参加が決定した志願兵はわずか3名に過ぎなかった。この時点で部隊規模は7名であった。第二次徴募は第3D捕虜収容所が空襲を受けたために延期される。1943年12月、収容所を利用する徴募計画は失敗とみなされ、第3D捕虜収容所の閉鎖が決定した。 次にドイツ軍部が選んだ徴募手段は優遇措置の強化であった。これは別の義勇部隊計画を管轄していたオスカル・ラング(Oskar Lange)により提案された。ドイツ軍部では収容所の生活環境を悪化させつつ、ごく最近収容された捕虜らを対象に脅迫や暴行などを用いて対独協力を強制し、その一方で志願者に対しては十分な食事と軍人たる生活環境が与えられた。こうした行動の結果、14名の志願兵が加わった。ところが熱狂的なNSDAP支持者だったクーパーは、非自発的志願者には国家社会主義への忠誠が見込めないとしてほとんどを収容所に送り返し、部隊の規模はわずか8名に留まっていた。 度重なる失敗にも関わらず、SSは英国人義勇部隊への興味を失わなかった。1943年11月には新たな計画担当者としてハンス・ロプケSS大尉(Hans Roepke)が派遣された。
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