さらなる出世と死去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/13 18:17 UTC 版)
「クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ネポス (紀元前57年の執政官)」の記事における「さらなる出世と死去」の解説
短期間の後、ネポスはポンペイウスと共にイタリアに戻って来た。しかし、ポンペイウスはムキア・テルティアと離婚した。このためネポスは兄ケレル同様、ポンペイウスの政敵となった。紀元前60年、ネポスは法務官に就任する。このときにイタリアの港における関税の廃止を達成している。紀元前59年、兄ケレルが急死する。このためネポスはアウグル(鳥占い官)の一員となる権利を得たが、4月には割り当てられた属州に赴任しなければならなかった。しかし、現存する資料には、この結果は書かれていない。他の誰かがアウグルに就任したのかもしれないし、あるいはネポスがアウグルに就任して属州へは赴任しなかったのかもしれない。 紀元前57年、ネポスはその政治歴の頂点である執政官に就任した。同僚はパトリキ(貴族)のプブリウス・コルネリウス・レントゥルス・スピンテルであった。このときローマでは、追放されていたキケロの処置が大きな議題となっていた。キケロはカティリナの共謀者を民会での正式な裁判無しに処刑していたが、これを紀元前59年に護民官プブリウス・クロディウス・プルケルが告訴し、キケロ追放が決議された(Lex Clodia de exilio Ciceronis)。しかしこの頃になると、追放解除を求める声が上がっていた。キケロは親友であるスピンテルに期待していたが、一方でネポスが過去の恨みから反対することを恐れていた。しかし予想に反して、ネポスは執政官就任当日に、スピンテルと共にキケロの帰還を支持する発言をした。と同時に、親戚であるクロディウスを支持していた。護民官ティトゥス・アンニウス・ミロがクロディウスを告訴しようとしたが、ネポスはこれを許さなかった。またアエディリス(按察官)に立候補したクロディウスを支援した。8月になるとキケロ帰還支持の優勢が明らかになり、ネポスも正式にキケロの帰還を認めた。 ヒスパニア・キテリオルがネポスの管轄属州となった。12月に開催された元老院会議にネポスは参加しておらず、執政官任期完了前に属州に赴任したのかもしれない。現地ではウァッカエイ族が反乱を起こしていた。当初ネポスは勝利を得ることが出来たが、手持ちの軍勢の数が足りず、反乱軍がクルニアを占領することを阻止できなかった。 紀元前55年、ネポスはローマに戻り、その後まもなく死去した。子供はいなかったため、ガイウス・カッリナスを遺産相続人とした。
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