さらなる実験
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/08 01:11 UTC 版)
「アレクサンダー・グラハム・ベル」の記事における「さらなる実験」の解説
1873年、ボストン大学で発声生理学と弁論術の教授になる。このころ、ボストンとブラントフォードを行ったり来たりという生活で、夏はブラントフォードの家で過ごした。音響に関する研究を続け、音符を伝送する方法や音声を発する方法を捜していたが、実験に十分な時間をあてることは難しかった。日中は夕方まで講義などで費やされるため、寄宿舎の部屋にレンタルした設備を揃えて夜遅くまで次々と実験する生活を送った。研究成果を奪われることを恐れ、ノートと実験装置を盗まれないよう施錠するのに大変苦労している。ベルは特製のテーブルにノートや実験装置を納め、ロックカバーの中に隠した。悪いことに、彼はひどい頭痛に悩まされるようになり、健康状態が悪化した。1873年秋にボストンに戻ったとき、ベルは音響に関する実験に専念するという重大な決断をした。 ボストンでの収入を諦めると決めたベルは、生まれつき聾の16歳のジョージ・サンダースと15歳のメイベル・ハバードという2人の生徒だけを雇った。その後の実験で2人は重要な役割を演じることとなる。ジョージの父トーマス・サンダースはセイラム近郊の屋敷をベルに提供し、そこでジョージの祖母も住み、実験室も設えた。実際に支援を申し出たのはジョージの母で、1872年にジョージと看護婦をベルの寄宿舎の側に引っ越させているが、トーマス・サンダースがその背後にいたことは明白である。合意によりベルと生徒たちはそこで一緒に働くことになった。メイベルは利発で魅力的な娘であり、10歳年下だったがベルの愛情の標的となった。彼女は5歳の誕生日を迎えたころに猩紅熱で聴力を失い、読唇術を学んだ。メイベルの父ガーディナー・グリーン・ハバードはベルの支援者で友人であり、メイベルがベルの側にいることを望んだ。
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