スコットの隊形
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 05:00 UTC 版)
「ノーマン・スコット (軍人)」の記事における「スコットの隊形」の解説
サボ島沖海戦において、スコットは指揮下部隊を「前衛の駆逐艦、巡洋艦群、後衛の駆逐艦」という隊形に配置して日本艦隊を撃破した。そして、海戦以降1年近くもの間、ソロモン方面での水上戦闘でアメリカ海軍は、スコットが採用したものと同じ隊形をしばしばとった。1942年11月30日から12月1日のルンガ沖夜戦では、カールトン・H・ライト少将(アナポリス1912年組)がスコットの隊形を採用して第二水雷戦隊(田中頼三少将)を迎撃したが、酸素魚雷で滅多打ちにされた。1943年に入ってからはウォルデン・L・エインズワース少将(アナポリス1910年組)とアーロン・S・メリル少将(アナポリス1912年組)で、エインズワースは1943年7月4日から6日のクラ湾夜戦と前日の戦闘および7月12日から13日のコロンバンガラ島沖海戦で採用したが、やはり酸素魚雷で手痛い被害を受けた。メリルは11月1日のブーゲンビル島沖海戦で、スコットのものを修正した隊形と丁字戦法をとって日本艦隊に勝利した。 スコットのものとライト、エインズワースおよびメリルのものとは戦術が異なり、後者の由来はトーマス・C・キンケイド少将(アナポリス1908年組)に求められる。一方、スコットがどのような戦術をとろうとしたのかは、丁字戦法を採用したこと以外は断片的にしか判明していない。スコットはサボ島沖海戦の直前、第64.2任務群に逐次回頭、先行艦の航跡を後続艦がそのままたどるよう命じており、また回頭時には前衛に対して大きく回頭し、巡洋艦群の側面護衛を担当するようにも命じていた。しかし、前衛を大きく回頭させたことは結果的には仇となり、前述のように前衛は敵味方から砲撃を受ける羽目となった。なお、隊形そのものに関しては、艦艇研究家の木俣滋郎は「帆船時代からヨーロッパの海将が好んで用いた古典的布陣」としている。
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