フラムハイム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/12 14:25 UTC 版)
「アムンセンの南極点遠征」の記事における「フラムハイム」の解説
フラム号が氷の間に入り、湾の南東隅の入り江に停泊した後、アムンセンは遠征隊の主小屋を建てる場所を、船から2.2海里 (4.1 km) の場所に選定した。6組の犬橇隊が物資をそこまで運ぶために使われ、小屋を建てる工事が始まった。ビアランドとスタッベルードが氷の中深く基礎を据え、傾斜した地面を平らにした。風向きは東からに偏っていたので、小屋は東西方向を軸に建てられ、ドアは西に向いて付けられた。こうすれば風は短い東向きの壁だけで受けることになった。1月21日に屋根が吹かれ、その6日後に小屋が完成した。その時までに200頭のアザラシなど大量の肉が基地に運ばれ、岸の部隊が使うためと、南極点に向かう旅の前に補給所に置かれることになった。この基地は「フラムハイム」すなわちフラムの家と名付けられた。 2月3日早朝、思いがけなくテラノバがクジラ湾に到着した。テラノバはニュージーランドを1910年11月29日に発って、1911年1月初旬にマクマード・サウンドに到着していた。スコットとその本隊をそこで上陸させた後、テラノバはビクター・キャンベルが率いる6人の隊員を載せて、東のエドワード7世半島に向かっていた。この隊は当時まだ良く知られていなかった半島を探検するつもりだったが、海氷のために岸に近づけずにいた。船は上陸できそうな場所を探して、バリアの縁を西に動いているときに、フラム号に出逢った。スコットは以前にアムンセンがその基地をウェッデル海地域に造るものと推測していた。それは大陸の反対側にあった。アムンセンがここに居たことは、南極点への競争を60海里 (108 km) 前から出発できることを意味しており、イギリス隊にとっては警告になった。出逢った2つの隊は互いに丁重に振る舞った。キャンベルとその士官であるハリー・ペネルとジョージ・マレイ・レビックはフラム号船上で朝食を摂り、テラノバ船上での昼食で返礼した。アムンセンはテラノバが無線ラジオを持っていないことを知ってほっとした。それがあれば、極点到達勝利の報せを最初に届けたいというアムンセンの戦略を危険に曝す可能性があった。しかし、キャンベルがスコットのモーター駆動橇がうまく動いていると仄めかすことを言っていたことには心配させられた。それでもアムンセンはイギリス隊にキングエドワード7世半島を探検するための基地としてフラムハイム周辺の場所を使うよう提案した。キャンベルはその申し出を断り、スコットにアムンセンに関する情報を伝えるためにマクマード・サウンドに向かった。
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