南への旅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 14:40 UTC 版)
国王エドワード7世と王妃アレクサンドラ・オブ・デンマークに拝謁した後、ニムロドは1907年8月11日に出帆した。シャクルトンは遠征の手配で後に残り、他の遠征隊員と共に快速船でニムロドを追うことになった。隊員が揃ったのはニュージーランドであり、1908年元日に南極へ向けて出港する用意ができた。燃料を節約する手段として、ニュージーランド政府に頼み、ニムロドを南極線まで曳航して貰った。距離にして約1,400海里 (2,600 km; 1,600 マイル) あり、曳航費用をユニオン蒸気船会社と政府で折半した。1月14日、最初の氷山が見られたときに、引き綱が切られた。ニムロドはそれ自体の動力で浮いている海氷の中を南に進み、6年前にディスカバリーが停泊したバリア入り江に進んだ。そこはスコットとシャクルトンが気球による飛行実験を行ったところだった。 バリア(後にロス棚氷と呼ばれた)は1月23日に視認されたが、入り江は消えていた。バリアの縁は時が移った間にかなり変わっていた。入り江を含んでいた所は壊れてかなりの湾を形成しており、数多くの鯨が見られたので、シャクルトンはそこをクジラ湾と名付けた。シャクルトンは氷が海に分離するかもしれないバリアの表面で冬季宿営するリスクについて準備はしていなかったので、船をエドワード7世半島の方へ転じた。この海岸に何度か寄せようとして失敗した後、急速に動く氷が船を閉じ込める恐れもあったので、ニムロドは後退を強いられた。このときシャクルトンが持っていた唯一の選択肢は、遠征の目標を放棄することを除けば、スコットとの約束を破ることだった。1月25日、マクマード・サウンドに向かうことを命じた。
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