補給所設置、1915年1月–3月とは? わかりやすく解説

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補給所設置、1915年1月–3月

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/12 14:43 UTC 版)

ロス海支隊」の記事における「補給所設置、1915年1月–3月」の解説

マッキントッシュは、シャクルトン最初シーズン大陸横断試みるかもしれない考え南緯79度、バリアの上では明確な目印であるミンナブラフと、南緯80度の2か所に、遅滞なく補給所設置することを決めたマッキントッシュ見解では、これら補給所シャクルトンの隊が生きてバリア横断することを可能にする最低のものだったオーロラ南極に着くのが遅れたために、訓練されていない隊員には環境順応のための時間がほとんど無くその先どう進行するかについて意見分かれたアーネスト・ジョイスはこの隊の中で最も南極での経験があったが、慎重なやり方好み少なくとも1週間出発遅らせることを望んだジョイスは、シャクルトン犬ぞり活動についてジョイス支配権与えた主張したが、マッキントッシュはそれを否定し、のちには根拠の無いことと論証したマッキントッシュ見解通り1915年1月24日3つの犬ぞり隊の中で最初のものがバリアの旅に出発し、他の2隊も翌日には出発したはどこまで連れていくかについて、ジョイスマッキントッシュの間に別の意見の相違発生したジョイスはミンナブラフより先に連れていくべきではないと主張したが、マッキントッシュは先を急いでおり、南緯80度まで連れていくと主張したモーター駆動物資を運ぶ試み失敗した最終的に補給物資はミンナブラフと南緯80双方に置くことはできたが、全体的な操作問題となった物資全て補給所まで届けられたわけではなかった。モーター駆動同様に、この旅に連れて行った10全て帰還中に死んだ全ての隊が3月25日にハットポイントまで戻ったが、その時まで隊員疲弊し凍傷罹りマッキントッシュ自信をかなり失っていた。マクマード・サウンドの海氷の状態はエバンス岬に戻るのを不可能にしており、隊員6月1日までそこで立ち往生し質素な暮らしを送るしかなく、食料燃料アザラシの肉と脂肪頼った。 この最初補給所設置の旅と、そのとき経験した困難さ結局不必要だったことが後に分かったシャクルトン1914年12月5日エンデュアランスウェッデル海向けてサウスジョージア出港した日)にサウスジョージアから、「デイリー・クロニクル」のアーネスト・ペリスに宛てて送った手紙で、「このシーズン大陸横断するチャンスは無い」と書いていた。マッキントッシュはこのことを知らされるはずだったが、「電報送られることは無かったとのことだった。

※この「補給所設置、1915年1月–3月」の解説は、「ロス海支隊」の解説の一部です。
「補給所設置、1915年1月–3月」を含む「ロス海支隊」の記事については、「ロス海支隊」の概要を参照ください。

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