補給所設置、1915年1月–3月
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「ロス海支隊」の記事における「補給所設置、1915年1月–3月」の解説
マッキントッシュは、シャクルトンが最初のシーズンに大陸横断を試みるかもしれないと考え、南緯79度、バリアの上では明確な目印であるミンナブラフと、南緯80度の2か所に、遅滞なく補給所を設置することを決めた。マッキントッシュの見解では、これら補給所はシャクルトンの隊が生きてバリアを横断することを可能にする最低のものだった。オーロラが南極に着くのが遅れたために、犬や訓練されていない隊員には環境順応のための時間がほとんど無く、その先どう進行するかについて意見が分かれた。アーネスト・ジョイスはこの隊の中で最も南極での経験があったが、慎重なやり方を好み、少なくとも1週間は出発を遅らせることを望んだ。ジョイスは、シャクルトンが犬ぞりの活動についてはジョイスに支配権を与えたと主張したが、マッキントッシュはそれを否定し、のちには根拠の無いことと論証した。 マッキントッシュの見解が通り、1915年1月24日、3つの犬ぞり隊の中で最初のものがバリアの旅に出発し、他の2隊も翌日には出発した。犬はどこまで連れていくかについて、ジョイスとマッキントッシュの間に別の意見の相違が発生した。ジョイスはミンナブラフより先には犬を連れていくべきではないと主張したが、マッキントッシュは先を急いでおり、南緯80度まで連れていくと主張した。モーター駆動橇で物資を運ぶ試みも失敗した。最終的に補給物資はミンナブラフと南緯80度双方に置くことはできたが、全体的な操作が問題となった。物資の全てが補給所まで届けられたわけではなかった。モーター駆動橇と同様に、この旅に連れて行った犬10頭全てが帰還中に死んだ。全ての隊が3月25日にハットポイントまで戻ったが、その時までに隊員も疲弊し、凍傷に罹り、マッキントッシュが自信をかなり失っていた。マクマード・サウンドの海氷の状態はエバンス岬に戻るのを不可能にしており、隊員は6月1日までそこで立ち往生し、質素な暮らしを送るしかなく、食料と燃料はアザラシの肉と脂肪に頼った。 この最初の補給所設置の旅と、そのとき経験した困難さは結局不必要だったことが後に分かった。シャクルトンは1914年12月5日(エンデュアランスがウェッデル海に向けてサウスジョージアを出港した日)にサウスジョージアから、「デイリー・クロニクル」のアーネスト・ペリスに宛てて送った手紙で、「このシーズンで大陸横断するチャンスは無い」と書いていた。マッキントッシュはこのことを知らされるはずだったが、「電報が送られることは無かった」とのことだった。
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