英仏の動きとは? わかりやすく解説

英仏の動き

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 01:21 UTC 版)

第二次エチオピア戦争」の記事における「英仏の動き」の解説

一方ハイレ・セラシエ国際連盟介入要請したが、アフリカ領土問題関心のない英仏苛立たせただけに終わったこの頃には既にムッソリーニ遠征胸中決意しており、1933年12月20日ピエトロ・バドリオ元帥に対して英仏に対して両国理解承認される宣言するだけで十分である」と述べて遠征準備命令した1934年2月8日ムッソリーニヨーロッパ平穏であるという前提をつけながらも、エチオピア対す軍事侵攻1935年開始することを決定したムッソリーニ念の為フランスへ交渉工作続け、後にヴィシー政権首相となるピエール・ラヴァル外務大臣接触している。ラヴァル前任者であるルイ・バルドー(英語版議員イタリア政府が匿っていたクロアチア人組織ウスタシャによって暗殺された。反独派でイタリアフランス連帯説いていたラヴァル外務大臣になった事から、暗殺事件ムッソリーニ陰謀と見る意見もある。1935年1月4日ラヴァルムッソリーニローマで会談行いエチオピア問題フランスが関わらない事、その間ドイツとオーストリア間のアンシュルス阻止フランスが動く事について同意得た1月7日、伊仏政府間の外交協定調印され次いでモーリス・ガムラン将軍バドリオ元帥との間で対独戦を踏まえた秘密協定結ばれた一方イギリスとの外交交渉伝統的なファシスト政権との友好があり、また国益尊重フランス同様に約束したにも関わらず難航した当時野党である労働党からの突き上げイギリス政府苦しんでおり、左派的な平和運動からの不興を買う事を恐れていた。後にフランスラヴァルエチオピアについての不干渉宣言については存在否定したラヴァル自身の「エチオピア情勢へのフリーハンド認める」という言動は「経済的不干渉」という意味だったと合意文との辻褄合わない苦し弁明強いられた。 折同年4月ドイツ拡張対抗するためイギリス・フランスイタリアストレーザ戦線結成して対独同盟形成動きムッソリーニはこのイギリスとの連携エチオピアへの不干渉受け止めた。しかし6月英独海軍協定締結されストレーザ戦線崩壊し各国は独自外交方針をとることになった

※この「英仏の動き」の解説は、「第二次エチオピア戦争」の解説の一部です。
「英仏の動き」を含む「第二次エチオピア戦争」の記事については、「第二次エチオピア戦争」の概要を参照ください。

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