英仏の動き
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「第二次エチオピア戦争」の記事における「英仏の動き」の解説
一方、ハイレ・セラシエは国際連盟に介入を要請したが、アフリカの領土問題に関心のない英仏を苛立たせただけに終わった。この頃には既にムッソリーニは遠征を胸中で決意しており、1933年12月20日にピエトロ・バドリオ元帥に対して「英仏に対しては両国の理解は承認されると宣言するだけで十分である」と述べて遠征準備を命令した。1934年2月8日、ムッソリーニはヨーロッパが平穏であるという前提をつけながらも、エチオピアに対する軍事侵攻を1935年に開始することを決定した。 ムッソリーニは念の為にフランスへの交渉や工作を続け、後にヴィシー政権首相となるピエール・ラヴァル外務大臣と接触している。ラヴァルの前任者であるルイ・バルドー(英語版)議員はイタリア政府が匿っていたクロアチア人組織ウスタシャによって暗殺された。反独派でイタリアとフランスの連帯を説いていたラヴァルが外務大臣になった事から、暗殺事件はムッソリーニの陰謀と見る意見もある。1935年1月4日、ラヴァルとムッソリーニはローマで会談を行いエチオピア問題へフランスが関わらない事、その間にドイツとオーストリア間のアンシュルス阻止にフランスが動く事について同意を得た。1月7日、伊仏政府間の外交協定が調印され、次いでモーリス・ガムラン将軍とバドリオ元帥との間で対独戦を踏まえた秘密協定も結ばれた。一方、イギリスとの外交交渉は伝統的なファシスト政権との友好があり、また国益の尊重をフランス同様に約束したにも関わらず難航した。当時の野党である労働党からの突き上げにイギリス政府は苦しんでおり、左派的な平和運動からの不興を買う事を恐れていた。後にフランスのラヴァルもエチオピアについての不干渉宣言については存在を否定した。ラヴァルは自身の「エチオピア情勢へのフリーハンドを認める」という言動は「経済的不干渉」という意味だったと合意文との辻褄が合わない苦しい弁明を強いられた。 折同年4月ドイツの拡張に対抗するためイギリス・フランスはイタリアとストレーザ戦線を結成して対独同盟形成に動き、ムッソリーニはこのイギリスとの連携をエチオピアへの不干渉と受け止めた。しかし6月に英独海軍協定が締結されてストレーザ戦線は崩壊し、各国は独自外交方針をとることになった。
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