英仏両国の間を奔走
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/01 16:14 UTC 版)
「ヘンリー・ボーフォート (枢機卿)」の記事における「英仏両国の間を奔走」の解説
1422年に大甥ヘンリー6世が幼少で即位すると諮問会議(評議会)の一員に加わり、1424年に3度目の大法官となった。イングランドは摂政でヘンリー5世の弟ベッドフォード公ジョンがフランスへ赴いて不在のため、もう1人の弟グロスター公ハンフリーが代行(護国卿)となったが、彼の独走を抑えるため評議会の同意なしに権力を行使出来ないことにした。合わせて自派の官僚を評議会へ送り込んだためグロスター公と対立、1426年のベッドフォード公の仲裁(バット議会)も効果なく大法官を辞任(代わりに枢機卿を受諾)、ローマ亡命を余儀なくされた。 だが、評議会のボーフォート派の基盤は強固だったため、1428年にボーフォート枢機卿は帰国、グロスター公が枢機卿の讒言やボーフォート派の評議員を解任しても形勢は変わらず、1433年に評議会はボーフォート派の評議員復帰で優勢な状態で決着、1437年のヘンリー6世親政開始でボーフォート派は国王の信任の下実権を握った。 一方、ジャンヌ・ダルクの活躍で急速に劣勢になり始めたフランス戦線を押し止めるためフランスとイングランドを行き来していた。1429年7月、ベッドフォード公の援軍要請に応じてイングランドから2500名をカレー経由でパリへ派遣、1430年に捕らえたジャンヌの身柄引き渡しをベッドフォード公と共にボーヴェ司教ピエール・コーションと相談、ジャンヌの牢獄の鍵の預かり人の1人となり、1431年4月に一時病気になったジャンヌ治療のため医者を派遣、5月の異端裁判にも臨席するなどジャンヌの動向に気を配った。 12月16日、パリのノートルダム大聖堂でヘンリー6世の戴冠式を執り行ったが、民衆の評判が悪くフランス優勢の流れを変えられなかった。1435年7月にフランス・イングランド・ブルゴーニュ間で和平会談が行われるとイングランド代表として出席したが、折り合いを付けられずフランスとの交渉は決裂、フランス・ブルゴーニュが和睦(アラスの和約)、一層イングランドが不利になった。交渉中の9月にベッドフォード公が急死したことも痛手で、1439年のフランスとの会談も失敗した。
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