英仏予備交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 02:06 UTC 版)
イギリスはホイッグ党政権のもと、「スペインなくして講和なし」、すなわちブルボン家のスペイン王位継承を認めないことを原則として戦争を続けていた。しかし1710年、トーリー党のオックスフォード伯ロバート・ハーレーが、この原則を放棄する代わりにイギリスが権益を得るという形の和平を目指して極秘裏にフランスと接触し、秘密交渉が始まった。同年のうちに、ホイッグ党政権が倒れた。これに代わったハーレーや、シュルーズベリー公爵チャールズ・タルボット、ボリングブルック子爵ヘンリー・シンジョンらトーリー党政権は、表向きは戦争を継続しながらもフランスと秘密交渉を進めて講和にこぎつけるべく、和平案をフランス側から提示された体で閣議にかけつつ、1711年に戦争の英雄であるマールバラ公ジョン・チャーチルを解任し、1712年に講和に反対したロバート・ウォルポールを投獄するなどして野党ホイッグ党に圧力をかけていた。9月27日に調印された英仏間の予備条約の内容は、フランス王ルイ14世がイギリス女王アンの王位とプロテスタントの王位継承を認め、フランス・スペインの合邦を否定するなどというもので、これに加えてイギリスのジブラルタル・メノルカ島やアシエントなどの商業利権獲得といった内容も取り決められた。しかしホイッグ党も1711年にシンジョンらの予備条約案をリークし、トーリー党内の反講和派をも取り込んで議会を延期させるなどして激しく抵抗した。
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