英仏の抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 15:20 UTC 版)
「北アメリカの毛皮交易」の記事における「英仏の抗争」の解説
「フレンチ・インディアン戦争」および「スコットランド系住民とインディアンの交易」も参照 クリュール・ド・ボワであったピエール=エスプリ・ラディソンとメダール・S・デ・グロセリエの義兄弟は、クリー族からの情報を元に、ハドソン湾を毛皮交易の拠点とするよう本国やヌーベルフランス総督に進言したが無視され、逆に不法交易で投獄までされた。これに怒った2人はイングランドに情報を売り渡し、1665年には国王チャールズ2世に拝謁した その後、1671年になってヌーベルフランスが遠征隊を送った時には、既にイングランドの交易所ができていた。この後、ハドソン湾をめぐっての英仏の小競り合いが続いた。最大の戦いはハドソン湾の戦いであった。フランスの、カナダへの西方への探検と拡大はロベール=カブリエ・ド・ラ・サールやジャック・マルケットといった探検家により続行された。彼らは五大湖をオハイオバレーやミシシッピバレー同様、フランスのものであると主張した。こういった土地の所有を巡る主張を裏付けるため、フランスはフォート・フロンテナックからオンタリオ湖まで、一連の小規模の砦を1673年に建築した。1679年に建築された大型帆船ル・グリフィンが、五大湖を航行するようになり、フランスは五大湖の上流域にまで砦を作るようになった。 1640年代から1650年代のイロコイ戦争で、ヒューロン族の西に住んでいた部族が戦争から逃れたため、大規模な人口推移が起きた。彼らはミシガン湖の西または北に移り住んだ。そして、より多くのインディアンの部族がヨーロッパの品について学び、交易の仲介をした。その中でも有名なのはオタワ族である。早くとも1671年には、フランスと仲介役のインディアンとは、イングランドの競合勢力ハドソン湾会社により、収益の減少を感じとるようになっていた。フランスは交易相手のインディアンを取り戻そうと、スペリオル湖北西部への拡大を図ったが、ハドソン湾会社の存在は目の上のたんこぶだった。得意先を取り戻すために、フランスはインディアンたちに如才なく駆け引きを用い、また一時的にハドソン湾会社の競合を除去するため、軍による攻撃的な態勢を取った。同じ時期、ニューイングランドにおけるイングランドの力が強くなっていった。一方で、その間フランスはクーリュール・ド・ボワの除去に乗り出しており、本来よりも高い値で、高品質の毛皮をニューイングランドに密輸する彼らをつぶすべく、インディアンと同盟を結んだ。 イロコイ戦争から逃れてきたインディアンたちは五大湖の北、または西部に住むようになり、それと同時に、フランス人交易者相手に巨大な市場を作ろうとしたオタワの仲介人は衰退していった。1680年代にイロコイ戦争が復活し、フランスとインディアンの同盟が武器を買うようになったため、毛皮交易がまたも奨励されるようになった。新規開拓された市場までの距離と、イングランドとの激しい競争とは、カナダ北西部とモントリオールの間の交易にじかに影響を及ぼした。クーリュール・ド・ボワは、インディアンの仲介者と、モントリオールの毛皮見本市に出向き、または違法ながらイングランドの市場にも赴いたが、彼らに代わって、より一層複雑化し、集約的になった交易網が進展するようになった。許可証を持った交易者ヴォワヤジュールがモントリオールの商人と契約を結び、交易のための商品を積んだカヌーで、川や水路を伝って、広範囲にわたる北西部の交易に出るようになった。この危険を伴う事業には、当初の大きな投資が必要で、収益には時間がかかった。ヨーロッパでは、この取引での初めての歳入は、最初の投資から4年かそれ以上かかった。こういった経済的要因により、投資するだけの余裕がある、少数のモントリオールの商人たちだけが毛皮交易を独占できた。
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