大同盟戦争期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 09:03 UTC 版)
「ウィリアム3世 (イングランド王)」の記事における「大同盟戦争期」の解説
ウィリアム3世のイングランドはただちにアウクスブルク同盟に参加、ルイ14世は対抗のためフランスに亡命したジェームズ2世を援助、アイルランドへ出兵させた(ウィリアマイト戦争)。フランス軍を率いたジェームズ2世がアイルランドを制圧すると、ウィリアム3世は1689年に遠征軍を派遣したが、進行が遅れると1690年に自ら軍を率いてアイルランドに渡り、ボイン川の戦いでジェームズ2世を破った。しかし、大陸でフランス軍と戦っていたヴァルデックがフルーリュスの戦いでリュクサンブール率いるフランス軍に敗れると、翌1691年に本国オランダに帰ってネーデルラントでフランス軍と戦った。 アイルランドはギンケルによって平定され、フランス軍のイングランド遠征も1692年のバルフルール岬とラ・オーグの海戦で敗退したため、イングランド侵略の恐れは無くなり、ウィリアム3世は大陸へ渡れるようになった。1691年からウィリアム3世は、春に大陸へ渡りフランス軍と戦い、秋にイングランドへ渡海して議会を開会して政治を行うことが終戦までの活動になる。また、時間が空いている場合はヘルダーラント州アペルドールンのヘット・ロー宮殿で狩猟に興じていた。 1691年と1692年の戦役はブーフレールとリュクサンブールにネーデルラントの都市を落とされ、ナミュールもフランス軍に包囲の末陥落(第一次ナミュール包囲戦)したことでサンブル川流域を制圧され、リュクサンブールとの戦闘でも敗北を続け(ステーンケルケの戦い、ネールウィンデンの戦い)、サンブル川から東のマース川を防衛するだけで手一杯だった。また、ウィリアム3世の留守はメアリー2世と名誉革命の功労者たちを中心としたトーリー党とホイッグ党双方の有力者集団に任せていたが、戦争中にホイッグ党が議会で優勢となり政府批判を展開すると、顧問格のサンダーランド伯ロバート・スペンサーの勧めにより1694年にホイッグ党(ジャントー)の政治家を登用して、政府の構成員をホイッグ党に交代させた。この組織は最初の内閣とされている。 議会との抗争が収まった後は引き続き大同盟戦争に集中し、1695年にリュクサンブールが亡くなった隙を突いて、1692年にフランス軍が落としたナミュールを奪還(第二次ナミュール包囲戦)、守将のブーフレールを捕虜として戦線を西に押し戻した。1696年と1697年の戦役は互いに進展が無かったが、ナミュールの陥落とフランスの財政が限界に近付いていたこともあり、1697年に腹心のポートランドを通してブーフレールと交渉、レイスウェイク条約を締結させた。ウィリアム3世はイングランド王として承認され、ネーデルラントに守備兵を置くことも認められ、フランスの脅威に備えた。 英仏の抗争は北アメリカにも拡大し、英領アメリカの植民地とフランス領カナダで戦争が行われた(ウィリアム王戦争)。ウィリアム3世の生涯は、オランダに対するフランスの侵略と戦うことに費やされた。
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