大同発足後の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/24 14:59 UTC 版)
日本水力から大同電力に引き継がれた水利権は九頭竜川筋の西勝原・花房、支流打波川筋の東勝原・下打波の計4地点で、うち竣工していた発電所は西勝原発電所1か所のみに留まる。未開発の3地点はその後大同電力から昭和電力へ移譲され、庄川水系とともに同社によって開発が進められることになる。日本水力が着工していたが工事が中止となった真名川の五条方発電所は、大同電力や昭和電力が消滅した後日本発送電によって1943年(昭和18年)に再着工されるまで工事に進展がなかった。 日本水力が進めていた北陸から大阪への送電線建設は、大阪送電会社の計画に由来する木曽から大阪への「大阪送電線」建設が優先されたため後回しになり、発注されていた資材は同送電線へと転用された。大阪送電線は発足翌年の1922年(大正11年)7月に一部が完成し、まず大阪電灯への電力供給が開始され、翌年3月には京都電灯への供給も始まって、日本水力が計画していた2つの供給先への供給は実現した。一方、後回しになった北陸からの送電線計画については、昭和電力により同社「北陸送電幹線」として1927年(昭和2年)に着工され、1929年(昭和4年)に完成を迎えた。 三井鉱山との高原川開発共同経営については、1922年8月、日本水力時代の契約を元に大同電力・三井鉱山の共同出資による神岡水電の設立として実行に移された。設立に先立つ1920年に三井鉱山は高原川支流跡津川における跡津発電所の建設に着手しており、1924年(大正13年)にまず同発電所が完成。その後も高原川の発電所が相次いで竣工した。これらの発電所からの発生電力は昭和電力北陸送電幹線が完成すると同線を通じて関西方面へ送電されるようになった。 また日本水力(旧北陸電化)の硫安工場は、大同電力では武生工場として引き継がれ、木曽電気興業から継承した鋳鋼工場(名古屋製鉄所)とあわせて副業として経営された。だが同社は本業の電力事業とは事業状況が異なることから早々に副業の分離方針を立て、同年11月17日付で武生工場を引き継ぐ大同肥料株式会社、名古屋製鉄所を引き継ぐ大同製鋼株式会社の2社をそれぞれ新設した。大同肥料はその後大同化学工業に改称、1945年(昭和20年)に信越化学工業と合併するまで存続した。
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