インディアン諸部族との交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 00:05 UTC 版)
「フレンチ・インディアン戦争」の記事における「インディアン諸部族との交渉」の解説
1749年、イギリス政府は、オハイオ領土での交易や入植を拡大するため、バージニア・オハイオカンパニー(英語版)に土地を提供した。この下賜には100家族以上の入植と、防御のための砦の建設が求められていた。しかし、ペンシルベニア植民地もここが自分たちの土地であると主張しており、両植民地は各自の主張を譲らず、互いに行動に移すように要求した。1750年に、バージニア植民地とオハイオカンパニーの代理として、クリストファー・ギスト(英語版)がオハイオ領土を実地調査して、地元のインディアン部族との交渉をログスタウンで切り出した。これは1752年のログスタウン条約で締結され、「ハーフ・キング」と呼ばれたインディアンの有力者タナチャリゾン(タナギリソン)と、イロコイ族の代表とがモノンガヘラ川(現在のペンシルベニア州ピッツバーグ)にストロングハウスを建てることを許可された。 オーストリア継承戦争(北アメリカにおけるジョージ王戦争)が、アーヘンの和約の署名によって1748年に終了した。この条約は、各領地を戦前の状態に戻すことが決められ、イギリスが奪ったルイブールがフランスへ返還された。これがニューイングランドの住民を怒らせたため、イギリスは、失業者対策を兼ね、ルイブールに近いハリファックスに入植地と軍港を作った。他にもニューイングランドとの取引のあったアカディア、漁業権が焦点となったニューファンドランドも、なお英仏の抗争の一因となっていた。
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