インディアン移住時代(1830年~1840年)
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「ポタワトミ族」の記事における「インディアン移住時代(1830年~1840年)」の解説
1820年代後半、連邦政府は保留地を作り、ポタワトミ族にとっては移住の時代が始まった。ビリー・コールドウェルとアレクサンダー・ロビンソンはチッペワ族(オジブワ族)、オタワ族、ポタワトミ族の代表として連邦政府と交渉し、プレーリードゥシーン条約を締結した。その結果ウィスコンシン州とミシガン州の土地の大半を連邦政府に譲渡した。次々に流入してくるヨーロッパ系アメリカ人の圧力に押され、連邦政府は長年にわたって保留地の大きさを縮小させていった。 1833年、コールドウェルとロビンソンによってシカゴ条約が締結された後、最後のステップを歩んでいった。土地を譲渡する見返りに、連邦政府は新たな土地と年金、そして新しい家を作ることができるように物資を保障した。イリノイ州のポタワトミ族はネブラスカ州に、インディアナ州のポタワトミ族はカンザス州へと、ともにミシシッピ川の西側へと移動した。年金や物資は削減されたり、到着が遅れたりすることがよくあり、ポタワトミ族は移住してから苦しんだ。カンザス州に移住した集団は後にインディアン準州(現在のオクラホマ州)に移った。インディアナからのポタワトミ族の移動はPotawatomi Trail of Death(ポタワトミの死の道)と呼ばれ、同行したカトリックの神父バンジャマン・プティ(ベンジャミン・ペティット)により記録された。ペティットはインディアナに戻る途上で亡くなった。彼の日記はインディアナ歴史学会によって1941年に刊行された。 多くのポタワトミ族がミシガンなどに残る方法を探した。近くのオタワ族の所へ逃げたり、西へ移るのを避けてカナダへと行く者もいた。
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