インディアン政策
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「サミュエル・シュート」の記事における「インディアン政策」の解説
1713年にスペイン継承戦争が終わったとき、北アメリカにおける戦域となったニューイングランド近辺(アン女王戦争と呼ばれた)は不穏な終結となった。戦争を終わらせたユトレヒト条約は、インディアンの主張に関しては何も認めず、フランスによるアカディアの割譲については曖昧な表現しかなかった。ニューイングランド北部で競い合った地域には、現在のノバスコシア、ニューブランズウィック、メイン東部があった。1713年にジョセフ・ダドリーがマサチューセッツとニューハンプシャーに居住するインディアン部族との敵対関係を終わらせるための交渉を行ったが、ポーツマス条約の文書は口頭で伝えられた合意内容とは異なり、イギリス人開拓者がメインの海岸や川沿いにあるアベナキ族の土地に侵入することで、その条件が侵害されていた。さらに隣接するノバスコシアのミクマク族はいかなる条約にも調印していなかった。フランスもイギリスも競合する地域に住む部族に対して宗主権を主張していた。インディアンはワバナキ連邦という緩やかな連邦を組織し、紛争があった地域の大半について主権と所有権を主張していた。 1717年、メインのアロウシックで開催した会見で、シュートとワバナキ族数部族の代表が、インディアンの土地に植民地人が侵入することと、植民地が運営する交易基地を設立することに関して、合意事項を引き出そうとした。ケネベック族の酋長ウィワーナは、彼らの土地に開拓地を設立することだけでなく、砦の建設にも反対し、自分たちの土地に関する支配権を主張した。シュートはしばしば不躾にウィワーナを遮り、領土に対するイギリスの領有権を強引に再確認させようとした。ワバナキ族は、これ以上の開拓地が認められなくなる適切な境界線が引かれるならば、現存する違法な開拓地も認める用意があった。シュートは、「我々は我々が所有するものと、所有するであろうものを望むだけである」と答えた。この曖昧な回答と、最終的に合意された条約はワバナキ族を満足させなかった。 その後の数年間で、ケネベック川東岸のワバナキ族の土地に開拓者が侵入し続け、その東岸には小要塞状の防御施設まで建設した。ワバナキ族は家畜を襲うことで反応した。関連する3者が争っていたノバスコシアの開拓地カンソーは、ノバスコシアが要塞化し、マサチューセッツの漁師達が占有したものであり、紛争の発火点にもなっていた。1718年、カンソーを拠点にする漁師から嫌がらせや襲撃に関する苦情が出た後、シュートはその地域にイギリス海軍のフリゲート艦を派遣し、フランスの船舶や物資を捕獲した。1720年にカンソーがミクマク族に攻撃されたときに緊張感が高まった。 1720年の会議で、ワバナキ族はメインで出した被害に対する賠償として生皮400枚を差し出すことに合意し、生皮が配給されるまで4人を人質に残すこととした。シュートはフランスのイエズス会宣教師セバスチャン・ラルがメイン中部でケネベック族の間に生活していることにも抗議し、ラルの排除を要求した。1721年7月、ワバナキ族が生皮の半分を送って来た時に、人質の返還を要求したが、会見の場に同行していたラルの引き渡しは拒否した。マサチューセッツから公式の回答が無く、間もなく襲撃が再開された。 ワバナキ族はその後、論争のある地域に対する主権を再度主張する異常に長い文書を作成し、主張する地域に線引きし、その領土が侵害された場合は暴力に訴えると脅した。シュートはその文書を「横柄で脅しに満ちている」として無視し、アロウシックに民兵隊を派遣した。さらには、ラルの影響力に基づき、ワバナキ族の主張が、論争ある地域に対するフランスの領有権を広げようというフランスの陰謀に加担しているとも主張した。この考え方に従い、1722年1月にはラルを捕まえるために民兵の遠征隊を派遣した。この部隊はラルが本拠にしていたノリッジウォックのケネベック族集落に到着したが、ラルは既に逃亡していた。民兵隊はラルの文書(フランス当局との通信を含む)の入った金庫を回収し、それをシュートはフランスの関与という主張を補強するために使った。シュートは論争地域に対するイギリスの主権主張を、ヌーベルフランスの貿易相と総督のフィリップ・ド・リゴー・ボードレイユに宛てた文書で繰り返した。ボードレイユはその返書で、その地域に対する主権をフランスは主張しているが、ワバナキ族が領有を続けていることを指摘し、ヨーロッパ人とインディアンの土地所有に関する考えが交差したときの方法を誤解していると示唆した。 ノリッジウォックへの襲撃と、メイン海岸の防御強化によって予測通りの反応が起こった。ワバナキ族は戦争に走り、1722年にはメイン海岸のイギリス人開拓地を襲撃し、ノバスコシアおきでは船舶を捕獲した。1722年7月25日、シュートが正式にワバナキ族に対して宣戦布告し、正式に戦争を始めることになった。この戦争は副総督のウィリアム・ダマーがマサチューセッツを指揮することになったので、ダマーの戦争と呼ばれることが多い。
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インディアン政策
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「ユリシーズ・グラント」の記事における「インディアン政策」の解説
グラントは熱心な保留地政策の支持者であり、どちらかといえば和平主義者であったが、保留地囲い込みに従わない部族は絶滅させるとの姿勢だった。 1860年代後半から、知人であったインディアン(イロコイ族)出身のエリー・サミュエル・パーカー(本名ドネホガワ)をインディアン総務局長に任命し、保留地監督官にさまざまな宗教団体から推薦された者を任命する政策を実行した。クェーカー教徒の志願者が多かったため、「クェーカー政策」「平和政策」と呼ばれた。しかしキリスト教の押し付けも、インディアン部族にとっては余計なお世話であり、対立は解消されなかった。 このグラントの和平案から、「戦争の諸原因を除去し、辺境での定着と鉄道建設を確保し、インディアン諸部族を開化させるための体系を作り上げる」べく、「和平委員会」が設立されることとなった。和平委員会はインディアン諸部族と数々の条約を、武力を背景に無理矢理結んでいったが、すぐに白人側によって破られていく現実を前に、グラントが夢想したような和平などは実現しないと悟った。 また、西部インディアン部族の最大反抗勢力であるスー族に対し、雪深い真冬に保留地への全部族員移動を命じて反感を増大させ、戦乱のきっかけを作った。
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インディアン政策
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「ジェームズ・アブレズク」の記事における「インディアン政策」の解説
アブレズクが生まれたウッズは、1930年代当時スー族の居留地(ローズバッド居留地)内にあったため、一家はスー族と深く関わりを持っていた。チャールズが妻レナをレバノンから呼び寄せたときには、アメリカ先住民たちが歓迎の宴を開いてくれたという。こうした家庭環境と故郷の立地からインディアン通として知られていた。 1978年にはインディアンの子供と家族を守る「1978年インディアン児童福祉法(英語版)(ICWA)」(1978年)の制定に尽力した。19世紀後半から20世紀前半のアメリカ社会では、児童虐待やネグレクトは法的罰則よりも養子縁組という社会手段による解決が望ましいとされていた。しかし、児童虐待などの基準は白人キリスト教社会に基づくものであり、インディアンの家族制度は考慮されていなかった。インディアンにとって育児とは部族単位で行うものであって、親類に子供を預けることはごく自然なことであったが、白人のソーシャルワーカーによってこれが育児放棄であると見做されたのである。また、インディアン部族は貧困に喘いでいたため、多くのインディアンの子どもが「生活必需品を奪われた子ども(children deprived of the necessities of life)」の状態にあるとされた。インディアンの子どもたちは、連邦政府から支援を受けたソーシャルワーカーや宣教師らによって、救済を名目に親と引き離され、白人などの非インディアン家庭に養子に出されたり、施設に預けられたりしていた。これは子供たちの文化を奪い、部族の存続を脅かすものであった。1974年にNPOのアメリカ・インディアン問題協会がインディアン問題小委員会に報告した調査によれば、全インディアン児童の25%から35%が親から引き離されていたとされている。アブレズクの選挙区であるサウスダコタ州においても、州による養子縁組のうち4割がインディアン児童によるものだった。しかし、アブレズクがスポンサーとなったICWAの制定によって、先住民児童の保護監督権の移動において部族裁判所の管轄権を優先することなどが定められ、いきすぎた養子縁組に一定の歯止めがかけられることになった。
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インディアン政策
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「ジェームズ・モンロー」の記事における「インディアン政策」の解説
詳細は「セミノール戦争」を参照 モンローはインディアンに対しては、終始排除方針を採った。白人入植者は南東部全域に拡大する一方であり、彼らは各地のインディアン部族の領土を侵略し、あちこちで武力衝突が絶えなかった。モンローは邪魔なインディアンをミシシッピ川以西へ強制排除し、民族浄化した後の広大な領土を白人入植者に開放しようとした。 1817年、モンローは米国に反抗的なフロリダ原住民セミノール族インディアンを滅ぼし、彼らの後援者であるスペインを罰するとしてアンドリュー・ジャクソン将軍をスペイン領フロリダに派遣し、徹底的な焦土作戦によってインディアンを大量虐殺した。 この武力行使は議会で、「インディアンに対する虐殺」よりもむしろ「フロリダ領への侵入」が問題となり、憲法論争を生んだ。ジャクソンの「功績」の報せを受けた連邦議会は、「第一次セミノール戦争」の調査を行った。当時の第15期連邦議会は民主共和党が圧倒的に支配しており、概して領土拡張主義者で占められ、人気のあるジャクソンを支持する方向にあった。議員の多くは党派や派閥連衡を潰すことを企んでいて、ジャクソンの敵対者の主張は弱く、容易に論破された。論争の後、下院はどんな形であれジャクソンを有罪と判決したすべての決議を投票で否決した。こうして暗黙のうちにモンローの行動は支持され、セミノール戦争に関する行政官の役割を取り巻く問題は不問にされた。 1817年、モンローは、「すべてのインディアンは狩猟経済の段階から農業経済に進むべきである」と考え、「狩りに頼った野蛮な生活は、これを維持するために広大な領地を必要とし、それは文明化された生活への進展とは相容れないものである」と述べた。しかし、トーマス・ジェファーソン以来の、インディアンの農民化を軸とした同化政策を加速させようというモンローの提案は、連邦議会に無視された。 1825年、モンローは、「東部に原住しているすべてのインディアンを、白人が生きることができない西部地域に移住させる」というインディアン移住法の原案を議会に上程した。議会での論争の後に、アンドリュー・ジャクソンはインディアンの強制移住を支持。のちの大統領職の際に、甚大なインディアンの死者を生みだしながら、この強制移住は実行されることとなった。東部のインディアン部族はそのほとんどが農耕民族であったが、単純にミシシッピ川以東の肥沃な大地は、白人入植者がプランテーション経営のために喉から手が出るほど欲しがっていたものだったのである。
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