ラマーと平原部族
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/25 15:22 UTC 版)
「テキサスのインディアン戦争」の記事における「ラマーと平原部族」の解説
ラマーは比較的おとなしい部族であるチェロキー族をテキサスから排除できたことで大胆になり、平原部族にも同じことをやろうとした。ラマーはそのインディアン政策を実行する為の軍隊を必要とし、大きな費用をかけてその組織化に乗り出した。しかし独立時に共和国には多く見積もっても3万人のイギリス系アメリカ人とヒスパニックの住人しかいなかった。チェロキー族はテキサスに2,000人足らずが居たのであり、特に「チェロキー戦争」は比較的短期間で流血も少なく済んでいたので、これを排除することは共和国にとって恐ろしい損失ではなかった。 しかし、コマンチェ族とカイオワ族は1830年代に2万人から3万人が住んでいたと推測されている。彼らには高性能の火器が供給されており、かなり過剰なくらいの馬も持っていた。さらに1830年代までにコマンチェ族はインディアン同士の大きな同盟ネットワークを確立し、広い交易のネットワークも持っていた。共和国は民兵隊を持っていたが持続的軍隊ではなく、そのちっぽけな海軍はヒューストン政権下で大きく減らされていた。チェロキー戦争以後、ラマーはその政策を追求するための人も金も無かったが、挫けることもなかった。 ラマーの2年間の任期はコマンチェ族と開拓者の間の暴力沙汰を拡大することで特徴付けられた。例えば冬の間に捕獲できたはずのパロデュリョ・キャニオンでコマンチェ族と戦う十分なレンジャーズが居なかった。しかし1839年暮れ、コマンチェ族ペナタッカ隊の穏健派酋長達の何人かが、アパッチ族にしたようには開拓者達を完全にその領土内から追い出すことは出来ないと考えるようになっていた。コマンチェ族領土の北方でシャイアン族とアラパホ族が攻撃を仕掛け、数回の天然痘の流行で前の2世代に大きな損失を出していたことが組み合わされ、ペナタッカの穏健派酋長達は条約で利益に繋がると確信していった。それ故に彼らは共和国とコマンチェリアの境界を認めさせることと引き換えに和平を交渉するためにテキサス人との面会を申し出た。 ペナタッカ隊の戦闘派酋長で最も著名なバッファロー・ハンプはこの決定を承服せず、ラマーやその代理人を信用しなかった。コマンチェ族の他の11隊のどれも和平交渉に全く関与しなかった。 最も著名な戦闘派酋長の助言に反対してコマンチェ族の1隊の穏健派酋長が交渉に入ると決断したことは、歴史上分からない理由でラマーにコマンチェ族は降伏する用意があると思わせることになったと考えられる。ラマーの指示はコマンチェ族が1つのはっきりした政体を持っていないことを理解していなかったことを示しているように思われる。その陸軍長官は、ラマーがコマンチェ族に1人の人間として行動し、軍事力の脅威に屈服することを期待していることを明確にする指示書を発行した。 ラマーの陸軍長官アルバート・ジョンストンはその目的にために、民兵隊に明白な指示書を持たせてサンアントニオに派遣した。ジョンストンは第1歩兵連隊長ウィリアム・S・フィッシャー中佐にあてて次のように書いた。 コマンチェ族が事前に了解されていたように捕虜を連れてこないような場合は、彼らを拘束すること。そのうちの何人かが部族の者に拘束のことを報せるために伝令として派遣されるだろうが、捕虜が送られてくるまで人質を拘束し、その後に人質を解放すること。
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