インディアン戦争での従軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/17 14:36 UTC 版)
「ラナルド・S・マッケンジー」の記事における「インディアン戦争での従軍」の解説
南北戦争が終わった後、マッケンジーは正規軍に留まり、工兵司令部の恒久的大尉の階級に戻された。その後のインディアン戦争の時代にアメリカ合衆国西部で従軍し、1867年には第41アメリカ歩兵連隊(後に第24アメリカ歩兵連隊、バッファロー・ソルジャーの1部隊)で正規軍の大佐に指名され、アメリカ合衆国南西部でアパッチ族インディアンと戦った。1871年2月25日、テキサス州ジャックスボロのリチャードソン砦で第4アメリカ騎兵隊長となった。この連隊を率いてテキサス州西部のリャノ・エスタカードでノースフォークの戦いに参戦し、アメリカ合衆国政府の政策である居留地への移住に抵抗していたインディアンを破る為にその特異な地形に合った戦術を完成させた。1871年遅く、足に矢傷を負って、7度目の負傷となった。 1874年、マッケンジーはレッド川戦争で戦い、テキサス州サンアンジェロにあった作戦本部のコンチョ砦からはるか北であったパロデュロ・キャニオンの戦いでインディアンの連合軍を壊走させた。1876年、ダルナイフの戦いでシャイアン族を打ち破り、ブラックヒルズ戦争を終わらせることに貢献した。このことで1881年にはニューメキシコ地区軍指揮官に指名された。1882年、准将に指名され、テキサス方面軍任務となった(1883年10月30日)。マッケンジーはテキサスの牧場を購入して婚約したが、異様な行動をとるようになった。オクラホマ州シル砦で荷馬車から落ちて頭部を負傷したことが原因であるとされている。マッケンジーは精神的不安定の兆候を示し、精神の進行麻痺で1884年3月24日に陸軍から除隊した。 マッケンジーはニューヨーク州スタテンアイランドのニューブライトンにあった姉妹の家で死に、ウェストポイント墓地に埋葬されている。かってマッケンジーの経歴を何年間も密に辿って報告していた「ニューヨーク・タイムズ」はその死について短いコメントを載せただけだった。しかし、「アーミー・アンド・ネービー・ジャーナル」はマッケンジーの軍歴や個人的生活について長い記事を掲載した。その記事の冒頭は「かつて輝かしい存在であったラナルド・スライデル・マッケンジーの訃報に接して陸軍は悲しみに暮れるであろうが、彼の晩年を陰らせ彼を生ける屍に変えてしまった暗雲のことを思えば、その悲痛はいや増すばかりである」というものだった。 1958年から1959年にかけて放送され、リチャード・カールソンが主演した番組販売のテレビシリーズ『進め騎兵隊』(en:Mackenzie's Raiders)は、マッケンジーがテキサスのクラーク砦で勤務していた時期の出来事に大まかながら基づいている。
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