ハインリヒ1世と中世の帝国運営
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「フリッツラー」の記事における「ハインリヒ1世と中世の帝国運営」の解説
この街は、フランク族とザクセン族との定住地の境界地域に位置し、中世初期の重要な街道が交差する地点に面していた。こうした戦略上重要な位置にあることで、特に10世紀から11世紀にこの街はローマ王やローマ皇帝のヘッセンにおける特権的な滞在地となった。おそらくカール大帝の時代にはすでに建設されていたカイザー広場は、もう現存していない。フリッツラーは11世紀の初めまで重要な帝国会議、集会、教会会議が行われ、皇帝が滞在した。 906年のフリッツラーの戦いでコンラディン家出身のコンラートは、フランケン地方を支配していたバーベンベルク家の敵対者をこの地に急襲し、決定的に打ち負かすことに成功した。この戦いでコンラートは、同名の父親を失ったが、フランケン公の地位を確保した。コンラートは5年後にフォルヒハイムでコンラート1世となり、叔父ルートヴィヒ幼童王の後継者として東フランク王国の王に選出された。フリッツラー市の西端にあったコンラディン家の城は、これにより王の城館となった。 フリッツラーでの最も重要な帝国会議は919年のもので、この会議でザクセン公ハインリヒ1世は5月12日に東フランク王国の王となった。コンラート1世王は918年12月に息子をもうけないまま亡くなり、その弟フランケン方伯(コンラートの死後はフランケン公)エーバーハルトは、遺言によりハインリヒに王冠を献げる役割を託された。これは、ハインリヒだけが、フランケンとザクセンとの紛争を調停し、ドイツ南部のバイエルン、シュヴァーベン、ロートリンゲンの部族大公を帝国につなぎ止め、帝国の一体性を保持できるという考えを示すものであった。エーバーハルトとシュヴァーベン公ブルヒャルト1世は、ハインリヒの選出に賛成したが、バイエルン公アルヌルフ1世は921年にハインリヒが軍隊と共にバイエルンに入場して降伏した。これにより、ハインリヒはフランク族の後裔として、またカール大帝の後継者として東フランク王国の王座を占めた初めてのザクセン人となった。 その後、この街は何度も帝国会議や諸侯会議が開催された。特にオットー朝やザーリア朝の皇帝たちは1145年まで少なくとも15回、この街で宮廷、議会、裁判が開かれた。953年5月にオットー1世の下で開催されたフリッツラー会議では、対立した自らの息子リウドルフと、たとえばロートリンゲン公コンラート赤毛公やマインツ大司教フリードリヒといったリウドルフの支持者に対して重罰を宣告した。ハインリヒ4世と対立王ルドルフ・フォン・ラインフェルデンの争いでは、1078年から1079年にかけてフリッツラーは少なくとも 3 回両派の戦いの舞台となり、1079年秋にルドルフはこの街と王宮を廃墟とした。 1118年、1244年、1259年の 3 回フリッツラーで開催された教会会議も重要である。教皇使節のクーノ・フォン・プレネステ臨席で開催された1118年のフリッツラー教会会議では、教皇と新たな叙任権闘争を始めた皇帝ハインリヒ5世に対して破門が宣言されたことが通告された。同時にバンベルク司教オットーは、この皇帝の帝国宰相としてローマとの争いを続けたという理由で、教皇派によってその役職を剥奪された。また、この会議では、後にプレモントレ会を創設し、マクデブルク大司教となるノルベルト・フォン・クサンテンは洗礼者ヨハネを引き合いに出して異端との批判を切り抜けた。1244年5月30日の教会会議は、教皇から皇帝フリードリヒ2世へ、マインツ大司教からエアフルト市に対して破門を含む非難決議を宣告し、教会権力とその規律強化を目的とした14条の規約が設けられた。1259年の教会会議では、教会運営や規則に関する問いに対して一連の条例が公布された。その中には平信徒の扱いや、聖金曜日にはいかなるユダヤ人も窓から眺めたり戸口に立ったりしてはならないという命令も含まれていた。 帝国行政は、1400年にもう一度フリッツラーで転換した。ブラウンシュヴァイク=リューネブルク公フリードリヒは、フランクフルトの諸侯会議でヴェンツェル・フォン・ルクセンブルクに対する対立王として推挙されたが、マインツ大司教ヨハン2世はライン宮中伯ループレヒトを推した。不和となった両派はフランクフルトから旅立った。フリードリヒは帰る途中、1400年6月5日にフリッツラー近郊の現在のクラインエングリスでヴァルデック伯ハインリヒ7世とその協力者フリードリヒ・フォン・ヘルティングスハウゼンおよびコンラート・フォン・ファルケンベルクによって殺害された。殺害者はいずれもマインツ選帝侯の封臣やミニステリアーレであった。ヴェンツェルは8月20日まで帝冠を保持したが、その後ループレヒトに取って代わられた。1400年の殺害を記念して、15世紀以降、殺害現場に「クラインエングリスのカイザークロイツ(皇帝の十字架)」が建立された。
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