大学での対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 01:43 UTC 版)
プラハ大学の環境の発展は教会大分裂(シスマ)に大きく依存していた。ボヘミア王ヴァーツラフ4世の政策をローマ教皇グレゴリウス12世は支持しなかった。そこで王はグレゴリウス12世を見捨て、高位聖職者と大学に対して、並立する教皇を中立に支持するように命じた。しかし、大司教は教皇に忠実で、大学では中立を明言したのはフスを代表者とするボヘミア人だけだった。当時は反ウィクリフ派のドイツ人移民とウィクリフ派の土着チェック人の間で対立がおきており、プラハ大学でドイツ人の同郷団(ナツィオ、"natio")は3つあったのに対し、チェック人のは1つしかなかった。 1409年、大学の対応に怒ったヴァーツラフ4世は、フスとチェコ人指導者の教唆を受け、クトナー・ホラにて布告を発し、大学の諸問題に対して、ボヘミア人には3票の投票権を与え、主にドイツ人同郷団等の外国人には1票しか投票権を与えないという改革を宣言した。その結果、多くのドイツ人教授、技術者、学生がプラハ大学を去り、ライプツィヒ大学を創立した。プラハはチェコの一大学となったが、この時の移住者によって、ボヘミアの異端説の名声が遠い国々まで広まった。 大司教は孤立し、フスは名声を得た。彼は学長となり、宮廷からも支援を受けた。とかくするうちにウィクリフの学術的視点は国中に広まった。
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