アナーニとローマ教皇とは? わかりやすく解説

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アナーニとローマ教皇

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 01:15 UTC 版)

アナーニ」の記事における「アナーニとローマ教皇」の解説

5世紀以後アナーニにはカトリック教会重要な司教座置かれた。 9世紀には、かつてケレース神殿があった跡地最初大聖堂建設された。10世紀には農業復興(「再征服」)がはじまり、聖職者たちの権力がそれを支援した農業復興により、資源活用することができるようになった世俗領主は、農民たちのためにより強固な居住地を築くことが出来るようになり、経済的な発展と人口増大みられるようになった10世紀から11世紀にかけて、アナーニ教皇庁との関係を深めた教皇たちは疫病頻発するローマよりも、アナーニのほうが安全で健康的であると考えようになったアナーニ内部にも様々な派閥がありはしたが、ローマ教会に対して忠実な都市であった12世紀から13世紀にかけて、教皇好んでアナーニ滞在するようになり、その結果として、この時期教皇権皇帝教皇派と皇帝派)の抗争重要なできごとは、この都市舞台行われることとなった1122年教皇カリストゥス2世ヴォルムス協約に関する教皇教書アナーニ発している。クレーマ包囲戦教皇派都市皇帝フリードリヒ1世包囲受けた)のさなかの1159年ハドリアヌス4世は、ミラノなど北イタリア教皇派都市使節受け入れたハドリアヌス4世はこの都市没し、跡を継いだアレクサンデル3世アナーニ大聖堂フリードリヒ1世破門宣告している。1176年レニャーノの戦い教皇派ロンバルディア同盟フリードリヒ1世破った戦闘)ののち、アレクサンデル3世皇帝使節受け入れ和平協定である「アナーニ和約」が準備された。 13世紀アナーニ黄金時代であったアナーニ100年間に4人の教皇輩出している。有力貴族コンティ家 (it:Conti di Segni) 出身インノケンティウス3世在位:1198年 - 1216年)は、ローマ教皇絶頂期築いた人物である。フリードリヒ2世ドイツ皇帝即位支持しアッシジのフランチェスコ活動認めるなど、同時代においてもっとも傑出した人物のひとりであった。1代おいて教皇となったグレゴリウス9世在位1227年 - 1241年)はインノケンティウス3世の甥で、すぐれた法学者でもあった。1227年には、アナーニ大聖堂において、十字軍実行約束を果たさなかったフリードリヒ2世破門した。フリードリヒ2世破門されたまま第6回十字軍組織し外交交渉によってエルサレム手中に収めた。1230年グレゴリウス9世フリードリヒ2世アナーニ迎え破門解いている。グレゴリウス9世親族であったアレクサンデル4世在位1254年 - 1261年)は、パリ大学中心に巻き起こった托鉢修道会批判直面し批判勢力指導者であるWilliam of Saint-Amourに対して1256年アナーニで公式の非難行っている。また、アッシジのキアラ列聖1255年)もアナーニ行われた

※この「アナーニとローマ教皇」の解説は、「アナーニ」の解説の一部です。
「アナーニとローマ教皇」を含む「アナーニ」の記事については、「アナーニ」の概要を参照ください。

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