アナーニとローマ教皇
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5世紀以後、アナーニにはカトリック教会の重要な司教座が置かれた。 9世紀には、かつてケレース神殿があった跡地に最初の大聖堂が建設された。10世紀には農業の復興(「再征服」)がはじまり、聖職者たちの権力がそれを支援した。農業の復興により、資源を活用することができるようになった世俗領主は、農民たちのためにより強固な居住地を築くことが出来るようになり、経済的な発展と人口の増大がみられるようになった。 10世紀から11世紀にかけて、アナーニは教皇庁との関係を深めた。教皇たちは疫病が頻発するローマよりも、アナーニのほうが安全で健康的であると考えるようになった。アナーニの内部にも様々な派閥がありはしたが、ローマの教会に対して忠実な都市であった。12世紀から13世紀にかけて、教皇は好んでアナーニに滞在するようになり、その結果として、この時期の教皇権と皇帝権(教皇派と皇帝派)の抗争の重要なできごとは、この都市を舞台に行われることとなった。 1122年、教皇カリストゥス2世はヴォルムス協約に関する教皇教書をアナーニで発している。クレーマ包囲戦(教皇派の都市が皇帝フリードリヒ1世の包囲を受けた)のさなかの1159年、ハドリアヌス4世は、ミラノなど北イタリアの教皇派都市の使節を受け入れた。ハドリアヌス4世はこの都市で没し、跡を継いだアレクサンデル3世はアナーニの大聖堂でフリードリヒ1世の破門を宣告している。1176年のレニャーノの戦い(教皇派のロンバルディア同盟がフリードリヒ1世を破った戦闘)ののち、アレクサンデル3世は皇帝の使節を受け入れ、和平協定である「アナーニの和約」が準備された。 13世紀はアナーニの黄金時代であった。アナーニは100年間に4人の教皇を輩出している。有力貴族コンティ家 (it:Conti di Segni) 出身のインノケンティウス3世(在位:1198年 - 1216年)は、ローマ教皇権の絶頂期を築いた人物である。フリードリヒ2世のドイツ皇帝即位を支持し、アッシジのフランチェスコの活動を認めるなど、同時代においてもっとも傑出した人物のひとりであった。1代おいて教皇となったグレゴリウス9世(在位:1227年 - 1241年)はインノケンティウス3世の甥で、すぐれた法学者でもあった。1227年には、アナーニ大聖堂において、十字軍実行の約束を果たさなかったフリードリヒ2世を破門した。フリードリヒ2世は破門されたまま第6回十字軍を組織し、外交交渉によってエルサレムを手中に収めた。1230年、グレゴリウス9世はフリードリヒ2世をアナーニに迎え、破門を解いている。グレゴリウス9世の親族であったアレクサンデル4世(在位:1254年 - 1261年)は、パリ大学を中心に巻き起こった托鉢修道会批判に直面し、批判勢力の指導者であるWilliam of Saint-Amourに対して、1256年にアナーニで公式の非難を行っている。また、アッシジのキアラの列聖(1255年)もアナーニで行われた。
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