ドイツ皇帝即位
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「ヴィルヘルム1世 (ドイツ皇帝)」の記事における「ドイツ皇帝即位」の解説
1871年1月18日にヴェルサイユ宮殿鏡の間(フランス語版)で諸侯や軍人たちが集まる中、ヴィルヘルム1世はドイツ皇帝に即位した。 しかしそもそもヴィルヘルム1世は皇帝位につくことを嫌がっていた。プロイセンがドイツに吸収されると恐れていたためである。彼は1870年9月にドイツの帝冠を「汚冠」と表現し、そのような物を「栄光あるプロイセン王冠」と交換するつもりはないことを明言した。またもし皇帝位を受けるとしても1849年の時のようにドイツ帝国議会の選出によって帝冠を受けたくなかった。王権神授説の信条から帝冠は王侯たちから推戴されて受けることを希望していた。この点についてはビスマルクも異論はなかった(ビスマルクの場合は王権神授説への拘りというより帝国議会の力が巨大化することを恐れたからであったが)。 ビスマルクはバイエルン王国と交渉を進め、バイエルン王ルートヴィヒ2世が推戴者になるよう取り計らった。これについてヴィルヘルム1世は正統性の形式が保たれることを喜んだ。それでも皇帝即位に慎重なヴィルヘルム1世に圧力をかけるべく、ビスマルクは北ドイツ連邦帝国議会に称号問題を諮り、首相代理にバイエルン王の書簡を読み上げさせた。議会は議員30人を使者にしてヴェルサイユへ派遣し、ドイツ皇帝の冠を受けるようヴィルヘルム1世に要請した。あらゆる方面から皇帝即位を望まれる形となったヴィルヘルム1世もついに皇帝に即位することを承諾した。 しかし皇帝即位の前日になってヴィルヘルム1世は皇帝の正式名称について「ドイツ皇帝(Deutscher Kaiser)」ではなく、「ドイツラントの皇帝(Kaiser von Deutschland)」とすることを望んだ。ドイツという修飾語がプロイセンを吸収しているように感じたためであった。 だが今更変更するわけにもいかず、ビスマルクやバーデン大公フリードリヒ1世がヴィルヘルム1世の説得にあたったが、ヴィルヘルム1世は泣きながら「明日は我が生涯でもっとも不幸な日だ。プロイセン王国を墓に葬るのだから」「そんなことはフリッツ(王太子フリードリヒ)にやらせろ。彼なら誠心誠意その役職をやり遂げるだろう。私はごめんだ。私はプロイセンに留まる」と述べて退位さえ口にした。しかし鏡の間で皇帝即位式が行われることはすでに宮内大臣から布告が出されており、ヴィルヘルム1世の義務心の強さを知っているビスマルクはどのような形になったとしてもヴィルヘルム1世が欠席することはないだろうと確信していたので皇帝称号問題はドイツ諸侯を代表して祝辞を述べる予定のバーデン大公に任せてそれ以上こだわらなかった。 結局、ヴィルヘルム1世は皇帝即位式に出席した。なお即位式にあたって鏡の間に玉座を取り付ける計画があったが、他のドイツ諸侯に配慮するヴィルヘルム1世がこれを禁じた。また即位式の際にも他のドイツ諸侯たちを自分と一緒に壇上に上げて君主は同格であることを示す配慮をしている。ビスマルクが臣下を代表してドイツ帝国成立の布告を発し、それ以外の群臣は武器をかざして万歳と叫んだ。 しかしこの時ヴィルヘルム1世は皇帝称号問題でビスマルクに強い怒りを抱き続けていた。そのため、壇上を降りる際、先頭に立つビスマルクを無視するように通り過ぎてその後ろに並ぶ軍人たちとだけ握手した。その後もビスマルクには一言も声をかけなかった。 ビスマルクによればヴィルヘルム1世のビスマルクを冷たく無視する態度はこの後も数日続いたというが、やがていつも通りの関係に戻ったという。
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