ドイツ社会民主党への改名と党勢拡大
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「ドイツ社会民主党」の記事における「ドイツ社会民主党への改名と党勢拡大」の解説
1890年9月に社会主義者鎮圧法が失効。1890年10月12日から18日にかけてハレにおいて社会主義者鎮圧法失効後の最初の党大会が開催され、この党大会で社会主義労働者党はドイツ社会民主党(SPD)と党名を変更した。党指導部は2名の議長(Vorsizender)、2名の書記(Schriftführer)、1名の会計(Kassierer)、7名の監査(Kontrolleur)で構成され、議長にはパウル・ジンガーとアルウィン・ゲーリッシュ(ドイツ語版)が就任。また『ゾツィアルデモクラート』紙を廃止し、『フォアヴェルツ』紙を再興して中央機関紙に定めた。 1892年11月に開催されたベルリン党大会ではベーベルとジンガーが議長に選出された。以降1910年のマクデブルク党大会までこの2人が議長に選出され続けた。1911年3月にジンガーが死去したため、同年9月のイェーナ大会でベーベルと共にフーゴー・ハーゼが議長に選出された。ついで1913年8月にベーベルが死去すると同年9月のイェーナ党大会でハーゼと共にフリードリヒ・エーベルトが議長に選出された。 社民党の党員数は1906年6月30日の時点で38万4327人だったが、1907年7月31日には53万466人、1910年6月30日には72万38人、1912年6月30日に97万0112人、そして1914年3月31日には108万5905人に達した、社民党と密接な関係を持っていた自由労働組合(ドイツ語版)も1913年には組合員250万人を突破している。自由労働組合は社民党の支持母体の中でも随一の存在だった。 1912年の帝国議会選挙(ドイツ語版)では社民党は得票率34.8%を獲得して得票の上でも議席の上でも第1党となった。国際的にも第二インターナショナルにおける最大の社会主義政党であり、第2インターナショナル加盟政党の模範たる存在だった。無数の社会団体やスポーツクラブ、新聞などを保有して文化面での活動も広げていった。しかし議院内閣制が確立しなかった帝政ドイツにおいては議会の第1党となっても社民党はなお「隔離」された存在であり続け、1890年以降も帝政期を通じて社民党員はいたるところで「祖国なき輩」として差別待遇を受け続けた。 また帝政ドイツでは帝国議会が男子普通選挙であったものの、帝国に加盟する各邦国の選挙制度はプロイセン衆議院の三等級選挙権制度(ドイツ語版)に代表されるように厳しい制限選挙のもとにあったため、社民党が邦国政治に進出していくのは困難であった。プロイセン衆議院には社民党は1908年まで1議席も持てず、ザクセン王国議会(ドイツ語版)の衆議院においても1890年代こそ10議席程度保有していたものの、それ以降は1議席に落ち込んでいる。帝国の上院にあたる連邦参議院(ドイツ語版)は各邦国代表から成るが、最大の大邦プロイセンが絶大な影響力を持ったため、プロイセンに足場を持てない社民党は帝国政治のレベルにおいても不利だった。 一方で男子普通選挙が導入されていたバイエルン王国議会(ドイツ語版)の衆議院(ドイツ語版)(1906年に導入)やヴュルテンベルク王国議会(ドイツ語版)の衆議院(1906年に導入)、バーデン大公国議会(ドイツ語版)の衆議院(1904年に導入)では社民党は浸透した。これらの邦国では社民党はリベラル政党と連携することが多く、後述する「修正主義」「社会改良主義」の拠点となった。
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