アナーニ事件と黄金時代の終わり
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 01:15 UTC 版)
「アナーニ」の記事における「アナーニ事件と黄金時代の終わり」の解説
詳細は「アナーニ事件」を参照 ボニファティウス8世(在位: 1294年 - 1303年)は、アナーニ出身の4人目の教皇であるとともに、この町の名を刻んだ「アナーニ事件」の当事者となった人物である。カエターニ家(英語版)出身のボニファティウス8世は、ケレスティヌス5世の陰惨な退位(退位後、アナーニに近いフモーネの城に幽閉された)の後に教皇に選出されたが、フランス人枢機卿とコロンナ家によって反対された。ボニファティウス8世は、1300年を最初の聖年とし、またローマ大学を創設した。 この頃、フランスでは中央集権化を進める国王フィリップ4世が聖職者への課税をはかり、教皇と激しく対立した。1302年10月、教皇は回勅「ウナム・サンクタム」を発し、ローマ教皇権の至上性と、王権への優位を主張した。フィリップ4世は三部会の支持を得、ボニファティウス8世を放逐するための遠征を企図した。 1303年9月7日、フランス宰相ギヨーム・ド・ノガレは、2000人の傭兵(騎兵及び歩兵)を率い、アナーニの教皇宮殿を攻撃した。教皇と対立していたコロンナ家はこれに協力した。教皇の随員の多くや、教皇最愛の甥であるフランチェスコは間もなく逃げ去り、最後まで教皇に従ったのはペドロ・ロドリゲス枢機卿のみであった。宮殿は略奪され、教皇も危うく殺害されるところであったが、ノガレは兵士を派遣して教皇殺害を防いでいる。教皇はフランス兵およびイタリア兵によって捕えられた。囚人となった68歳の教皇は虐待と言うべき扱いを受け、3日間にわたって飲食物を与えられなかった。アナーニの市民は略奪者たちに対して反撃し、教皇を幽閉から救い出した。教皇は9月13日にローマに帰還したが、この事件によって衝撃を受けた教皇は10月11日にローマで没した。教皇の側近は、教皇が悔しさのあまりに没したと主張しており、教皇の死は「憤死」と表現される。 事件によってカエターニ家の野望は潰え、アナーニの黄金期は去り、教皇絶対主義も崩壊した。ボニファティウス8世の後を継いだフランス人のクレメンス5世は南フランスに移され、教皇権低迷の時代が始まる(アヴィニョン捕囚)。 1348年、アナーニはドイツ人傭兵Werner von Urslingenによって略奪され、町は廃墟と化した。
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