教派神道としての独立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/04 03:58 UTC 版)
1882年(明治15年)の「明治十五年一月二十四日内務省達乙第七号」によって祭祀を司る神官と、布教を行う教導職との兼補を廃止される。この直後に神宮司庁と神宮教院を分離したが、この神宮教院が神道神宮派という教派神道の一派となった。浦田が1877年(明治10年)に退任したあと教化に努めた田中頼庸が初代官長に就任する。10月5日には、教派神道の各派が派名で独立していたが、分派ではないとしてそれぞれ教団名にした。 1882年(明治15年)、神宮大麻と神宮暦の製造と頒布は、神宮教院への委託と取り決めたが、翌年、製造は神宮司庁が担うと改め、神宮教院は頒布を担った。
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