トリエント公会議と宗教和解への努力
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「カール5世 (神聖ローマ皇帝)」の記事における「トリエント公会議と宗教和解への努力」の解説
カール5世は宗教問題解決のため、公会議の実施に尽力し、1545年のトリエント公会議の開会でその努力は実を結んだ。公会議はカール5世の意図したルター派のカトリックへの改宗という成果はなかったが、カトリック教会の対抗改革の頂点となり、カトリック教会再生の契機となった。 その間もドイツではシュマルカルデン同盟との戦いが続いていたが、ザクセン公モーリッツを味方に引き入れたことによって、戦況はカール5世に有利に傾き、1547年4月24日のミュールベルクの戦いで決定的な勝利を収めた。同盟の2人の中心的指導者ザクセン選帝侯ヨハン・フリードリヒとヘッセン方伯フィリップを虜囚とすることに成功した。これ以上の内戦の激化を危惧したカール5世は1548年にアウクスブルクで暫定規定(Interim)を発令し、カトリックとプロテスタントのドイツにおける共存を提案した。しかし1552年3月カールの新教に対する強圧的な態度に反発したモーリッツの襲撃を受けて逃亡、戦勝による優位を失った。この結果8月にルター派を容認する旨の和平交渉が結ばれ(パッサウ条約)、これを原型に1555年にアウクスブルクの和議が結ばれることになる。
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