世界グライダー選手権大会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 02:53 UTC 版)
「河辺忠夫」の記事における「世界グライダー選手権大会」の解説
この頃河辺は、第二次大戦の終了後に2年ごとに開かれる様になった滑空機のオリンピックとも言える世界グライダー選手権大会への参加を希望し準備を開始した。 ドイツは第二次世界大戦後3回目の大会であるスペイン大会から参加し「君や日本からの参加選手を探したが会うことは出来なかった是非次のオーストリアの大会には参加するように」との書簡が、西ドイツ航空協会長になっていた旧友ウオルフ・ヒルトより佐藤博九大教授宛に届けられていた。 占領下の日本は自由に空を飛ぶことが出来ず、航空再開はサンフランシスコ平和条約締結後の1952年4月28日に発効してからであった。世界グライダー選手権大会には何としても日本からの選手を送りたいと考える当時のグライダー界を代表する九州大学航空工学科教授佐藤博は、あらゆる方面に実現への働きかけをした。資金難もあったが国際航空連盟は滑空士の認定章である国際滑空記章を定め、銀章、金賞、ダイヤモンド章のうち銀章以上を参加要件としていたため出場出来る選手も居なかった。そのため1954年オーストラリア大会の参加は見送らざるを得なかった。河辺は、この状況を佐藤教授より知り是非とも出場したいとの希望を持った。
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