世界グランプリ時代
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1993年、念願のWGP(GP250クラス)進出を果たすも、同じく世界にステップアップした原田哲也が参戦初年度にチャンピオンになったのに対し、岡田は1995年までの3年間に2勝するにとどまった。その上、全日本時代からライバルで同じホンダに所属する伊藤真一が岡田と同時に世界選手権に進出したが、伊藤が参戦するのは世界最高峰のGP500クラス。岡田自身も最高峰クラスに参戦したいのは当然であるが、それに見合う結果が出ていなかった。 そんな岡田の転機となったのが1995年の鈴鹿8時間耐久ロードレースだった。岡田の所属するホンダは鈴鹿8耐優勝をWGP・GP500クラスのタイトルと同じ価値として捉えており、岡田にとってはクラスアップへ向けた絶好のアピールの場であった。そしてアーロン・スライトとのペアで挑んだ岡田は優勝を達成し、翌年からのGP500参戦を現実のものとする。 1996年開幕戦、岡田はワークスのレプソル・ホンダからGP500にデビュー、ポールポジションを奪ってみせた。ホンダの主力・V型4気筒のNSR500に比べ非力なV型2気筒のNSR500Vでの参戦ながらランキング7位を獲得。翌1997年、活躍が認められNSR500を与えられる。インドネシアGPでは、当時圧倒的な強さを誇る王者・マイケル・ドゥーハンに競り勝ちGP500初優勝を達成、ランキングは2位まで上昇した。 GP500・4年目の1999年、岡田は3勝を上げランキング3位。また、アレックス・バロスとのペアで臨んだ鈴鹿8耐でも優勝、2勝目を記録し自身最高のシーズンとなった。しかし2000年は一転して不振に陥り、日本GP(鈴鹿)の3位が最高のランキング11位。伊藤との初ペアで挑んだ鈴鹿8耐も木曜日のフリー走行で遅いマシンに走行ラインをふさがれて、岡田が転倒。左足の靭帯を損傷。そして、決勝日の午前に行なわれたフリー走行で岡田はヘアピン先の高速コーナーでまたしても転倒を期し、決勝への出場を断念(代役は鎌田学)するなど決して良いシーズンではなかった。そしてこの年を最後に岡田はWGPから撤退する。
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世界グランプリ時代
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スズキは1997年からロードレース世界選手権GP250での参戦を決定し、アリー・モレナー・レーシングのエースライダーとして沼田もフルエントリーされた。サーキットのデータ不足やマシンの性能差は彼を苦しめ、2年で沼田は撤退。
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