独立飛行第1中隊
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上述の通り、対潜戦を重大事項として受け止めていた帝国陸軍(陸軍航空部隊・陸軍船舶部隊)では、1943年中後半の護衛空母搭載対潜哨戒機構想と時を同じくして同対潜要員の拡充が行われていた。その操縦者としては、既に学生航空連盟や民間飛行学校にて操縦士免状を取得した操縦経験者たる大学出身者が選ばれ、計20名は特別操縦見習士官(1期)の対潜要員学生として同年末頃に下志津陸軍飛行学校へ入校した。教育は操縦では基本練習機による初等練習から始まり三式連絡機の慣熟飛行を、また対潜哨戒の教練等を受け、下志津陸軍飛行学校銚子分教所では「KX」を用いた模擬発着船訓練を十分に実施している。なお、この模擬訓練時に銚子特有の強風に煽られ着陸に失敗、三式連絡機と「KX」を破壊した操縦者1名が(技量不足として転出したのちに)特攻隊要員となっている。この銚子分教所で教程を終えた対潜要員20名の内9名が「あきつ丸」乗組の操縦者となった。 1944年6月、「あきつ丸」船上において三式連絡機を運用する飛行部隊として、中隊長(隊長)以下10名からなる独立飛行第1中隊(軍隊符号:1Fcs)が新たに編成された。1Fcs長は、下志津陸軍飛行学校にて対潜要員学生の教官であった寺尾靖陸軍大尉(陸士55期)、部下の隊員9名は全てが特操1期の陸軍少尉である、操縦者全員が将校の飛行部隊であった。 加古川陸軍飛行場に移動した1Fcsは改装中の「あきつ丸」にて模擬発着船訓練を実施、こののち岩国海軍航空隊へ出向き、柱島泊地にて大竹の海軍潜水学校の協力を受け同年春頃から夏頃にかけて実際の潜水艦を用いた本格的な対潜哨戒訓練を行っている。この広島湾上の訓練中、1Fcsの碓氷少尉操縦機にエンジン故障が発生、同泊地に停泊中の空母「隼鷹」を発見した少尉は無線で「隼鷹」に対し緊急着艦要請を行ったが断られ、仕方なく「隼鷹」左舷部へ不時着水する事故が起きている。この事故機は「隼鷹」のクレーンによって引揚られたが、ワイヤー固定位置が悪いために主翼が折れ廃棄扱いとなった。また、3日ほど機体は飛行甲板上に置かれていたが、「隼鷹」の呉入港時に一緒に持って行かれてしまったため行方不明となっている 7月30日、改装が終了した「あきつ丸」は宇品へ帰還し1Fcsと三式連絡機8機は乗船、輸送任務も兼ねていたために小豆島と天保山を経て小樽へ向けて出港、この道中1Fcsは太平洋上にて爆雷投下試験を実施している。小樽で昆布を積載し宇品へ帰還したが8月6日には門司へ移動、翌7日から主に門司-釜山航路にて「あきつ丸」は輸送任務、1Fcsは対潜哨戒任務に就く事になった。 当時の「あきつ丸」船上・1Fcsの隊員はかなり自由であり、ある少尉操縦者はよく船内で行方不明となり、船長室で船長と飲酒していた・無線室で寝ていた・医務室で軍医からぶどう糖アンプルを貰い甘味料としていた。また、航行中にベッドで休憩していた週番勤務の古参の曹長を、週番士官であった少尉操縦者が飛行甲板に呼び出し1発張り倒した際には、これが上官による「私的制裁」とされ中隊長寺尾大尉は少尉の行動を咎めている。咎められた少尉は逆に中隊長に反論したが結局この少尉に処分が下される事はなく、この様に中隊長も部下を束縛していなかった。船上・機上にて隊員らによる記念写真撮影も盛んに行われている。 「軍服 (大日本帝国陸軍)#昭和18年制式」も参照 なお、1944年中頃当時の帝国陸軍は「航空胸章(航空に関係する将兵用)」と「航空用特別胸章(航空機に搭乗する将兵用、俗称は空中勤務者胸章)」、船舶部隊に「船舶胸章(船舶に関係する将兵用)」を制定し、佩用資格のある航空部隊ないし船舶部隊の陸軍軍人は軍服の右胸にこれら胸章を佩用していたが、「あきつ丸」の1Fcs操縦者は航空・船舶の両部隊に属する関係から、唯一これら3種類の胸章を佩用する特別な存在であった。
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