独立革命期とは? わかりやすく解説

独立革命期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/25 01:32 UTC 版)

マシュミ」の記事における「独立革命期」の解説

太平洋戦争終結直後1945年8月17日インドネシア独立宣言すると、その翌年予定され総選挙向けて各勢力政党設立した独立戦争その後の混乱によって総選挙初め実施されたのは1955年だった)。そうした動きのなかで、11月7日マシュミ党結成された。 マシュミ党の名称こそは軍政期のそれを引き継いでいるが、その指導部一新された。軍政期マシュミ指導部は、ムハマディヤNUなど、植民地時代政治色の薄いイスラーム社会団体であったに対して新たなマシュミ党には、インドネシア・サレカット・イスラーム党(PSII)、インドネシア・イスラーム党などの政治的イスラーム団体加わり急進的な指導者が党の指導部形成した。 党の初代議長就任したのは、インドネシア・イスラーム党のスキマン(Sukiman Wirjosandjojo、1898-1978年)だった。そして、党としてのマシュミは、オランダとの独立戦争聖戦ジハード)と位置づけムスリムに反オランダ闘争呼びかけるとともに党綱領では、イスラーム理念国政反映させることを謳っていた。 しかし、イスラーム系諸団体の「寄り合い所帯」でもあるマシュミは、結成当初から党の内部規律弱かった。党としては、オランダとの外交交渉継続する中央政府批判する一方で党内からは複数若手指導者が、外交交渉をすすめるシャフリル内閣、アミル・シャリフディン内閣いずれも社会党首班内閣)に入閣していた。 また、設立当時から党内には、モハマッド・ナシール領袖とする穏健改革派ハッタ内閣蔵相シャフルディン・プラウィラヌガラ、のちのナシール内閣外相モハマッド・ルム、そしてムハマディヤなど)、スキマンを領袖とする保守派(のちのスキマン内閣時の外相アフマッド・スバルジョ、NUなど)といった、指導者個性出自経歴政治志向、そしてその支持層などが大きく異な派閥存在していた。

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独立革命期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/14 05:27 UTC 版)

インドネシア社会党」の記事における「独立革命期」の解説

1945年8月17日独立宣言したインドネシア(旧オランダ領東インド)は、その後4年5ヶ月、対オランダ独立戦争戦った。そして、独立宣言からの短い期間のうちに、翌1946年予定されていた総選挙向けてさまざまな政党結成された(なお、予定され総選挙独立戦争その後の混乱のために延期され第1回総選挙1955年実施された)。 それらの政党のうち、1945年11月10日にアミル・シャリフディンが結成したインドネシア社会党 Parsi と、同年11月20日シャフリル結成した人民社会党 Paras は、12月17日合併して社会党 Partai Sosialis となったその後3期シャフリル内閣1945年11月14日-1947年6月27日)とそれに続く2期アミル内閣1947年7月3日-1948年1月29日)には、この社会党から多数メンバー入閣し社会党首班内閣として、インドネシア最初期国政運営担った当時民族主義運動リーダー目されていたスカルノ大統領ハッタ副大統領も、この社会党首班内閣支持したスカルノハッタは、日本軍政への協力各勢力から非難されて、独立宣言直後指導力発揮できない状態だった。シャフリル日本軍政下で対日協力拒否したという経歴によって、また、アミルは、日本軍時代抗日地下活動組織し軍政当局逮捕され終身刑収監されていたという経歴によって、それぞれ知識人たちや青年グループ支持集めていた。 当時の社会党は、以下のような支持基盤をもっていた。シャフリルのParas派は、戦前1930年代シャフリルハッタ指導したインドネシア国民教育協会所属していたメンバー中心にオランダ領東インド政府設置した高等教育機関卒業生や、オランダ留学から帰国したエリート知識人たちを含んでいた。アミルParsi派には、戦前のゲリンド Gerindo(Gerakan Rakyat Indonesiaインドネシア人運動)のメンバー労働運動青年団体、そして非正規武装組織であるプシンド Psesindo(Pemuda Sosialis Indonesiaインドネシア社会主義青年団)が含まれていた。 しかし、シャフリルアミル主導したインドネシア最初期国政波乱満ちたのだったオランダからの独立目指す外交交渉ではたびたび妥協強いられ、それが国内急進派からの批判招いた第3次シャフリル内閣がリンガルジャティ協定締結後混乱によって支持失って総辞職し、また第2次アミル内閣は、レンヴィル協定締結責任をとって総辞職した

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独立革命期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/26 09:44 UTC 版)

シャフリル」の記事における「独立革命期」の解説

終戦直後1945年8月17日スカルノハッタが「民族の名において」インドネシア独立宣言し同月22日暫定的な代議機関として中央国民委員会(Komite Nasional Indonesia Pusat)が発足インドネシア宗主国オランダからの独立達成するために、難し内政と外交舵取り取り組んでいくことになった1945年10月16日付の政府布告により、中央国民委員会日常業務を行うために集中的な権限与えられ常務委員会(Badan Pusat)が発足すると、シャフリルはその委員長就任した副委員長はアミル・シャリフディン Amir Sjarifuddin)。同年11月14日には同国初代首相就任外相内相兼任)、以後三期内閣組閣し、最初期国政運営指揮したその間シャフリルは自ら人民社会党(Partai Rakyat Sosialis、略称Paras)を組織し、アミル・シャリフディンが結成したインドネシア社会党(Partai Sosialis Indonesia、略称Parsi)と合併して社会党(Partai Sosialis)を結成した三期シャフリル内閣その後二期引き継いだシャリフディン内閣において、閣僚多数構成したのはこの社会党メンバーだった。 首相就任前後して小冊子我ら闘争(Perjoeangan Kita)」を発表日本軍政期のスカルノ・ハッタの対日協力厳しく批判するとともに内政面では、スカルノ唱える単一政党制導入を「全体主義」的であると否定して複数政党制よりなる多元主義的な西欧民主主義体制確立目指し外交面では、独立達成のために現実主義的路線、すなわち、親欧米協調路線訴えたこうした政治路線副大統領ハッタとも共有していたものであった首相就任当初は、日本軍政への協力拒否経歴などによって、青年知識人支持得ていたが、旧宗主国オランダとの外交交渉によって国家の独立獲得しようとする施政方針は、武力による独立達成もとめて急進化しつつあった青年層離反招き4期目組閣には失敗したその後政府顧問として諸国遊説しインドネシア独立支援各国説いて回った。 アミル・シャリフディン内閣が、オランダとの停戦協定であるレンヴィル協定承認をめぐる混乱によって総辞職すると(その間事情については「インドネシア独立戦争」を参照)、1948年1月29日副大統領ハッタ組閣することになったシャフリルはこのハッタ内閣支持し、アミル・シャフルディンは支持しなかったため、社会党分裂2月13日シャフリルインドネシア社会党(なお、アミル結成したインドネシア社会党同名であるため、こちらは略称がPSIとなっている)を結成し、その党首就任した一方のアミル・シャフルディンが主導する社会党左派グループは、その後インドネシア共産党合流した

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