独立革命期
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太平洋戦争の終結直後、1945年8月17日にインドネシアが独立を宣言すると、その翌年に予定された総選挙に向けて、各勢力が政党を設立した(独立戦争とその後の混乱によって総選挙が初めて実施されたのは1955年だった)。そうした動きのなかで、11月7日、マシュミ党が結成された。 マシュミ党の名称こそは軍政期のそれを引き継いでいるが、その指導部は一新された。軍政期のマシュミ指導部は、ムハマディヤ、NUなど、植民地時代の政治色の薄いイスラーム系社会団体であったのに対して、新たなマシュミ党には、インドネシア・サレカット・イスラーム党(PSII)、インドネシア・イスラーム党などの政治的イスラーム団体が加わり、急進的な指導者が党の指導部を形成した。 党の初代議長に就任したのは、インドネシア・イスラーム党のスキマン(Sukiman Wirjosandjojo、1898-1978年)だった。そして、党としてのマシュミは、オランダとの独立戦争を聖戦(ジハード)と位置づけ、ムスリムに反オランダ闘争を呼びかけるとともに、党綱領では、イスラームの理念を国政に反映させることを謳っていた。 しかし、イスラーム系諸団体の「寄り合い所帯」でもあるマシュミは、結成当初から党の内部規律も弱かった。党としては、オランダとの外交交渉を継続する中央政府を批判する一方で、党内からは複数の若手指導者が、外交交渉をすすめるシャフリル内閣、アミル・シャリフディン内閣(いずれも社会党首班内閣)に入閣していた。 また、設立当時から党内には、モハマッド・ナシールを領袖とする穏健改革派(ハッタ内閣の蔵相シャフルディン・プラウィラヌガラ、のちのナシール内閣の外相モハマッド・ルム、そしてムハマディヤなど)、スキマンを領袖とする保守派(のちのスキマン内閣時の外相アフマッド・スバルジョ、NUなど)といった、指導者の個性、出自、経歴や政治志向、そしてその支持層などが大きく異なる派閥が存在していた。
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独立革命期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/14 05:27 UTC 版)
1945年8月17日に独立を宣言したインドネシア(旧オランダ領東インド)は、その後4年5ヶ月、対オランダ独立戦争を戦った。そして、独立宣言からの短い期間のうちに、翌1946年に予定されていた総選挙に向けて、さまざまな政党が結成された(なお、予定された総選挙は独立戦争とその後の混乱のために延期され、第1回総選挙は1955年に実施された)。 それらの政党のうち、1945年11月10日にアミル・シャリフディンが結成したインドネシア社会党 Parsi と、同年11月20日、シャフリルが結成した人民社会党 Paras は、12月17日、合併して社会党 Partai Sosialis となった。 その後、3期のシャフリル内閣(1945年11月14日-1947年6月27日)とそれに続く2期のアミル内閣(1947年7月3日-1948年1月29日)には、この社会党から多数のメンバーが入閣し、社会党首班内閣として、インドネシア最初期の国政運営を担った。当時、民族主義運動のリーダーと目されていたスカルノ大統領とハッタ副大統領も、この社会党首班内閣を支持した。 スカルノとハッタは、日本軍政への協力を各勢力から非難されて、独立宣言直後は指導力を発揮できない状態だった。シャフリルは日本軍政下で対日協力を拒否したという経歴によって、また、アミルは、日本軍政時代に抗日地下活動を組織し、軍政当局に逮捕されて終身刑で収監されていたという経歴によって、それぞれ知識人たちや青年グループの支持を集めていた。 当時の社会党は、以下のような支持基盤をもっていた。シャフリルのParas派は、戦前の1930年代にシャフリルやハッタが指導したインドネシア国民教育協会に所属していたメンバーを中心に、オランダ領東インド政府が設置した高等教育機関の卒業生や、オランダ留学から帰国したエリート、知識人たちを含んでいた。アミルのParsi派には、戦前のゲリンド Gerindo(Gerakan Rakyat Indonesia、インドネシア人民運動)のメンバー、労働運動、青年団体、そして非正規武装組織であるプシンド Psesindo(Pemuda Sosialis Indonesia、インドネシア社会主義青年団)が含まれていた。 しかし、シャフリルとアミルが主導したインドネシア最初期の国政は波乱に満ちたものだった。オランダからの独立を目指す外交交渉ではたびたび妥協を強いられ、それが国内の急進派からの批判を招いた。第3次シャフリル内閣がリンガルジャティ協定締結後の混乱によって支持を失って総辞職し、また第2次アミル内閣は、レンヴィル協定締結の責任をとって総辞職した。
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独立革命期
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終戦直後の1945年8月17日、スカルノとハッタが「民族の名において」インドネシアの独立を宣言し、同月22日、暫定的な代議機関として中央国民委員会(Komite Nasional Indonesia Pusat)が発足、インドネシアは宗主国オランダからの独立を達成するために、難しい内政と外交の舵取りに取り組んでいくことになった。 1945年10月16日付の政府布告により、中央国民委員会の日常業務を行うために集中的な権限を与えられた常務委員会(Badan Pusat)が発足すると、シャフリルはその委員長に就任した(副委員長はアミル・シャリフディン Amir Sjarifuddin)。同年11月14日には同国の初代首相に就任(外相・内相を兼任)、以後、三期の内閣を組閣し、最初期の国政運営を指揮した。 その間、シャフリルは自ら人民社会党(Partai Rakyat Sosialis、略称Paras)を組織し、アミル・シャリフディンが結成したインドネシア社会党(Partai Sosialis Indonesia、略称Parsi)と合併して、社会党(Partai Sosialis)を結成した。三期のシャフリル内閣、その後を二期引き継いだシャリフディン内閣において、閣僚の多数を構成したのはこの社会党のメンバーだった。 首相就任と前後して小冊子「我らの闘争(Perjoeangan Kita)」を発表、日本軍政期のスカルノ・ハッタの対日協力を厳しく批判するとともに、内政面では、スカルノが唱える単一政党制の導入を「全体主義」的であると否定して、複数政党制よりなる多元主義的な西欧型民主主義体制の確立を目指し、外交面では、独立達成のために現実主義的な路線、すなわち、親欧米協調路線を訴えた。こうした政治路線は副大統領ハッタとも共有していたものであった。 首相就任当初は、日本軍政への協力拒否の経歴などによって、青年や知識人の支持を得ていたが、旧宗主国オランダとの外交交渉によって国家の独立を獲得しようとする施政方針は、武力による独立達成をもとめて急進化しつつあった青年層の離反を招き、4期目の組閣には失敗した。その後は政府顧問として諸国を遊説し、インドネシア独立の支援を各国に説いて回った。 アミル・シャリフディン内閣が、オランダとの停戦協定であるレンヴィル協定の承認をめぐる混乱によって総辞職すると(その間の事情については「インドネシア独立戦争」を参照)、1948年1月29日、副大統領ハッタが組閣することになった。シャフリルはこのハッタ内閣を支持し、アミル・シャフルディンは支持しなかったため、社会党は分裂、2月13日、シャフリルはインドネシア社会党(なお、アミルが結成したインドネシア社会党と同名であるため、こちらは略称がPSIとなっている)を結成し、その党首に就任した。一方のアミル・シャフルディンが主導する社会党内左派グループは、その後、インドネシア共産党に合流した。
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