独立騒動とヘンリー・ギブソン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/23 08:54 UTC 版)
「ロツマ島」の記事における「独立騒動とヘンリー・ギブソン」の解説
1987年10月にフィジーでクーデターが起こるとロツマ島の自称「王」であるヘンリー・ギブソンがフィジーから独立しかつてイギリス女王と結んだ保護条約を守るために独立すると主張した。 ギブソンは島生まれのスコットランド移民の子孫で母親は首長の娘であり少年時代にニュージーランドに移住、その後日本で空手等の武術の修行をし1981年のイギリス統治100周年の式典に招かれこれが独立運動に関わるきっかけとなった。村の首長が死んだ際新しい首長を別の村から招くことにギブソンは反対し自分を首長にしろと求めたが叶わず島の伝説の王復活を宣言し自ら王位に就いた。1987年5月にクーデターが起きると島の評議会は議論を始めフィジー残留を決定、9月に2度目のクーデターが起きても決定は変わらなかった。ギブソンは10月ロツマ島の王としてロツマ共和国の独立を宣言し嘆願書を元宗主国のイギリスと国連事務総長に送ったが無視された。12月にギブソンがデザインしたロツマ共和国旗が島の文化センターに英国旗と米国旗と一緒に掲げられた。 独立反対派が国旗を発砲する事件が起きたことでフィジー軍によってロツマ島は制圧、独立派が村の代表を解任して新しい独立派の代表を選出、通報され独立派の村代表が逮捕される事件が起こった。フィジー憲法はクーデターにより破棄した事によりロツマ島にはフィジーの司法管轄権は及ばないのかが一つの争点となったが評議会がフィジー残留を決めたので及ぶと判断され執行猶予付きの罰金刑が言い渡された。ギブソンはニュージーランドのにいたので逮捕されることもなかった。自称ロツマの王であるギブソンが支持された背景にはフィジー本土から遠く離れた辺境であるロツマ島の開発が遅れていたこと、税関はないためにコプラなどの輸出で不利であったこと、フィジーを経由して海外製品が輸入される為に物価が高いことなどフィジー政府への不満があり独立すれば先進国からの支援を直接ロツマ島に利用できる、フィジーを介さず直接貿易することで物価が下がる等の実利的な面もあった。
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