独立館舎時代(1955-2012)
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「田辺市立図書館」の記事における「独立館舎時代(1955-2012)」の解説
1955年(昭和30年)7月、上屋敷町にあった旧田辺市警察の庁舎へ移転し公民館から独立した。1956年(昭和31年)4月には、田辺市立図書館条例と図書館規則を制定し、同年10月に図書館協議会を設置した。1959年(昭和34年)の利用者数は63,141人で職員は3人であった。人口4 - 6万人の市にある公立図書館109館の中で貸出冊数は7位であったが、資料購入費は60位、利用者数は64位と低かったことから、時代に即した新図書館の建設を求める声が高まり、1963年(昭和38年)11月2日に鉄筋構造地上2階・地下1階建ての新館が竣工し、11月5日に開館した。 新図書館は田辺市出身の建築家・片山礼三が設計し、1階に一般図書室・児童室・郷土図書室・新聞雑誌閲覧室など、2階に展示場や会議室を設け、当時の地方都市としては立派であったため、開館直前に近畿市長会へ出席するために田辺に集まった市長らが視察に訪れている。私立田辺図書館以来の和装本や「宇井文書」、「田所大庄屋文書」、鬪雞神社からの寄託資料などは2階で保存し、後に地方史研究の重要拠点となった。新館開館により利用者が急増したものの、蔵書数は約18,500冊とあまり増えていなかった。そこで紀伊民報文化事業団は開館前に市民へ献本を呼びかけ、郷土史家から明治期以降の貴重な郷土資料120冊が寄贈されるなどの成果があった。その後も年間500 - 600冊の寄贈が続き、「はまゆう文庫」など寄贈書で構成された文庫が5つ開設された。また職員は5人に増員された。図書館の充実の一方で、皮肉にも利用者数は減少を続けることになり、市内にある県立図書館紀南分館との競合も発生していた。 1972年(昭和47年)5月23日には点字図書の貸し出しを開始し、1977年(昭和52年)に配本自動車の巡回を開始、1987年(昭和62年)に移動図書館「べんけい号」を導入するなどサービスの充実を進めた。この間、南方熊楠と親交のあった写真家の辻一郎の親族から辻が撮影した写真乾板503枚が寄贈された。この写真は図書館でしばらく眠ることになるが、2014年(平成26年)に南方熊楠顕彰館が再発見した。 1997年(平成9年)11月21日、経営破綻した阪和銀行の行員らが「地域への感謝」としてポケットマネーを出し合い202,769円を田辺市立図書館へ寄付した。同年12月、図書館企画として初めて魚拓展を開催した。2000年(平成12年)2月5日と2月6日には、田辺市教育委員会が図書館の創立100周年を記念した「生涯学習フェスティバル」を田辺市民総合センターで開催し、「図書館100年のあゆみ」として開館を報じる当時の新聞記事、市民から募集した「21世紀の図書館像」に関する絵画・作文を展示した。2001年(平成13年)度の入館者数は57,323人(1日あたり210人)、蔵書数は約126,600冊、貸出冊数は16万冊であった。この頃図書館は老朽化し、施設や駐車場が狭いことから市民の間から新図書館建設の声が上がるようになり、新館建設資金として40年弱図書館協議会委員を務めてきた市民から100万円が寄付された。2002年(平成14年)時点では、田辺市立図書館は祝日を休館日としており、ゴールデンウィーク10日間のうち開館したのは3日だけ、冬休み期間17日のうち開館したのは5日だけであった。こうした状況は他の和歌山県内の図書館でも似たような状況であった。利用者からの蔵書問い合わせの増加に伴い、2003年(平成15年)5月20日より、インターネットで蔵書検索ができるようにした。 2005年(平成17年)5月、田辺市は日高郡龍神村、西牟婁郡中辺路町・大塔村、東牟婁郡本宮町と合併し新しい田辺市となったが、図書館を設置していたのは旧・田辺市のみで、田辺市立図書館を本館とし、旧4町村の図書室を田辺市立図書館の分室とした。2006年(平成18年)4月17日、本宮分室を田辺市本宮行政局2階へ移転、2007年(平成19年)7月3日、新しい大塔分室が田辺市大塔行政局3階に開室した。2010年(平成22年)、旧・田辺市内のみを巡回していた移動図書館を、合併前の旧4町村のエリアにも拡大した。
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