私立田辺図書館(1900-1915)
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「田辺市立図書館」の記事における「私立田辺図書館(1900-1915)」の解説
私立の田辺図書館として1900年(明治33年)2月1日に開館した。これは図書館令が制定された翌年のことであり、記録に残る中では和歌山県師範学校検友会図書部に次いで和歌山県で2番目に開館した図書館であった。当日は西牟婁郡田辺町中屋敷町51番地に西牟婁郡長・田辺町長をはじめ、田辺町内の小中学校長ら26人が開館準備のために集結し、初代館長に伊藤貫一を選任した。伊藤は田辺基督教会の牧師であり、1893年(明治26年)に田辺に赴任して以降、田辺幼稚園の創設に携わるなどしてきた。伊藤は地方に図書館が必要であると説き、有識者に呼び掛け、地元青年の親睦会であった「熊洋クラブ」が図書館開設運動の中心に立った。 開館1年目の田辺図書館の維持費見込みは180円で、うち30円を田辺町からの補助金で賄い、残りを賛助会費と正会費で負担する計画であった。図書は個人蔵書の借用や有志の寄付に頼った。来館者数は10人以下の日がほとんどで、「牟婁新報」は同年4月22日の創刊号で図書館のことを「只是れ『新聞雑誌縦覧所』の如き者」と書き立てている。なお牟婁新報は1910年(明治43年)に西牟婁郡潮岬村(現・東牟婁郡串本町)の青年会が潮岬図書館を建てた際に「青年会にして此の大企画をなせる県下潮岬を以て嚆矢とす、田辺の図書館など汗顔に堪えずと言ふべし」と書いており、田辺図書館には厳しい評価を下している。 開館から3か月後の5月10日、田辺図書館は文部大臣に対して「図書館設立ニ付開申書」を提出した。開申書には1900年(明治33年)5月1日に設立したと書かれており、それまでは準備期間であったようである。設立の経緯や来館者数、図書や資金の寄付状況は『田辺図書館日誌』に記録されており、『田辺市史 第9巻』に収録されている。 田辺図書館には有力なパトロンが存在せず、開館2年目の会費収入は月々8円30銭と、年間の運営にかかる見込み金額(180円)の半分にも達せず、1904年(明治37年)には年間運営費を65円と記録している。すなわち本来かかるはずの経費を3分の1に切り詰めて運営していたのである。厳しい財政事情を反映して、図書館は1902年(明治35年)に中屋敷町から本町横丁へ、1907年(明治40年)6月に田辺小学校へ、1911年(明治44年)に本町67番地の熊本邸へと移転を繰り返した。田辺に住んでいた南方熊楠は、1911年(明治44年)2月8日に図書館を利用しようと田辺小学校へ行ったがすでに本町の熊本邸へ移転したと言われた旨を日記に書いており、目まぐるしい移転に住民が付いていけていなかったことが窺える。 1912年(明治45年)5月時点の蔵書数は和漢書が9,700冊、洋書が580冊であり、その中には個人からの借用図書も含まれていた。なお田辺図書館とは別に、1912年(大正元年)8月13日より紀伊教育会西牟婁郡支会が巡回文庫を開始した。現行の田辺市域では田辺・湊・西ノ谷・新庄の小学校に10日間文庫が置かれ、希望者が閲覧した。各町村に10日間しか設置されなかったため、情報伝達手段が発達していなかった時代背景もあり、田辺などの都市部はともかく、農山村では巡回文庫の情報を得て小学校を訪れたらすでに別の村に文庫が移動した後だった、ということも多かったようである。
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