1944年(2) 第一海上護衛隊作戦指揮下
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「第二十号掃海艇」の記事における「1944年(2) 第一海上護衛隊作戦指揮下」の解説
8月1日、モ05船団(7隻)を護衛し門司発。5日、支那方面艦隊作戦指揮を解かれて第一海上護衛隊作戦指揮下に編入され、11日までの門司回航を命じられる。7日、那覇着。那覇で作業中、陸軍輸送船山萩丸が本艇の右舷錨鎖に絡み錨鎖が切断したため、これを回収するため9日まで那覇に留まる。11日、門司着。15日、モタ23船団(15隻)を護衛し門司発。24日、台湾沖でアメリカ潜水艦ロンクィルの攻撃により2隻が被雷(うち1隻が沈没)したため、高雄行きの予定を変更し、25日一旦基隆に入港。27日、基隆を出港し29日に高雄着。31日、ミ船団のミ15船団救援のため、鵯、第41号駆潜艇、第63号駆潜艇とともに高雄発。9月1日に遭難現場へ到着し、鵯、第41号駆潜艇と対潜掃蕩を行う。2日、馬公に回航。 9月4日、ミ17船団(馬公出港時13隻)を護衛し馬公発。7日、アパリで第41号駆潜艇とともに船団から分離し、高雄を出港したタマ25船団(11隻、元モタ23船団)の増援に向かい、8日に合流。9日、海軍徴傭船豊岡丸と陸軍船満州丸が被雷沈没し、第17号掃海艇、第41号駆潜艇とともに10日まで現地で対潜掃蕩を行う。11日、船団がラポッグ湾に到達したところで船団から分離し、12日高雄着。14日、陸兵250名を乗艇させバタン島へ向かう。15日、バタン島に揚陸し、16日に高雄に帰着。18日、タマ26船団(8隻)を護衛して高雄発。21日、船団はアメリカ潜水艦ピクーダとレッドフィッシュの攻撃により瑞穂丸など2隻が被雷沈没したため、溺者救助と爆雷戦を行う。22日、船団はラボック湾に退避。本艇も同行し、入港後に遭難者を退艇させる。26日、サンフェルナンドに入港し、海軍配当船日南丸から重油を、陸軍船白根山丸から石炭をそれぞれ補給される。28日、ミマ11船団救援のためサンフェルナンド発。29日、一旦サンフェルナンドに寄港しサンタクルスに回航。10月1日、サンタクルス発、2日にマニラ着。 10月4日、マタ28船団(8隻)を護衛し高雄へ向けマニラ発。船団は6日に2隻、8日に1隻が撃沈されたため、目的地を香港に変更し11日着。当時はフィリピンと台湾が空襲を受けていたため(台湾沖航空戦)、船団の高雄回航は27日まで中断。再編成を終えた船団はホマ01船団と改称し、27日香港発。30日、高雄着。 11月1日、アメリカ潜水艦群の襲撃を受けて基隆に退避していたモマ06船団(基隆出港時12隻)に合流するため基隆に回航し、同日基隆発。2日、海軍徴傭船あとらす丸が被雷し航行不能となったため、本艇はあとらす丸乗員の救難にあたり674名を収容して泊地に帰投し、遭難者を阿蘇川丸に移乗させ遭難現場に戻った。遭難現場に到着後、呉竹によるあとらす丸の曳航を護衛しサブタン島まで同行した。6日、サブタン島を出発し、サンタクルスを経由して10日にマニラ着。フィリピンからの船舶退避命令が出されていたため、11日マユ10船団(2隻)を護衛し楡林へ向けマニラ発。14日に空襲で海軍徴傭船美崎丸が、15日には潜水艦の攻撃により同杉山丸が撃沈され船団が全滅したため、本艇はサイゴンへ回航。20日、サタ02船団(日田丸)に合流するためサイゴンを発し、21日にカムラン湾着。22日同湾を出港。25日、日南丸船団(日南丸)護衛の命によりサタ02船団から分離。28日、日南丸船団から分離しサイゴンへ回航。 12月、マサ12A船団を護衛するためサイゴン発。サイゴンに帰着後はサイゴン-シンガポール間の護衛に従事。12月末、シサ32船団を護衛しシンガポール発、1945年1月4日サンジャック着。
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