第6、第7の哨戒 1944年9月 - 1945年1月
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「レイポン (潜水艦)」の記事における「第6、第7の哨戒 1944年9月 - 1945年1月」の解説
9月4日、レイポンは6回目の哨戒でフラッシャー (USS Flasher, SS-249) およびボーンフィッシュ (USS Bonefish, SS-223) とウルフパックを構成し南シナ海に向かった。9月21日朝、レイポンは病院船を発見したが、当然ながら攻撃するわけには行かず見送った。その日の午後、レイポンはいくつかの煙を発見し、輸送船団と判断してこれに向かった。目標である輸送船団であるマタ27船団に近づいたとき、第38任務部隊(マーク・ミッチャー中将)から飛来してきた航空機がマタ27船団を攻撃し、全船を撃沈してレイポンの出る幕はなかった。翌9月22日、レイポンは北緯15度28分 東経118度48分 / 北緯15.467度 東経118.800度 / 15.467; 118.800の地点でマタ27AあるいはB船団を発見し、魚雷を6本発射。魚雷は陸軍輸送船順源号(満州海運、1,610トン)に命中してこれを撃沈した。9月27日には北緯15度45分 東経117度49分 / 北緯15.750度 東経117.817度 / 15.750; 117.817の地点でミマ11船団を発見し、フラッシャーと協力して攻撃した。フラッシャーが8時27分にうらる丸(大阪商船、6,375トン)を撃沈した後、レイポンもその2時間後に北緯15度50分 東経117度41分 / 北緯15.833度 東経117.683度 / 15.833; 117.683の地点で魚雷を6本発射し、応急タンカー北喜丸(北川産業、5,599トン)に命中させて撃沈した。レイポンはルソン島沖で哨戒を続け、10月5日午後には新たな輸送船団を発見。しかし、護衛艦の隙をうかがうも、上空を哨戒していた九六式陸上攻撃機が威嚇のためしばしば降下してくるので、攻撃の機会を逸した。10月10日には北緯16度10分 東経119度45分 / 北緯16.167度 東経119.750度 / 16.167; 119.750の地点でタマ29船団を発見し、魚雷を4本発射。陸軍輸送船江尻丸(日本郵船、6,968トン)の右舷に魚雷が2本命中し、江尻丸は大火災を発生して付近の浅瀬に座礁する同時に大爆発を起こした上、夕刻に沈没した。その後は、ルソン島各地を空襲する第38任務部隊機の援護任務に従事し、10月21日まで同海域にとどまった。10月31日、レイポンは56日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。 11月23日、レイポンは7回目の哨戒でルソン島近海に向かった。日本軍がレイテ島やミンドロ島に増援部隊を送りこむため、その阻止をするため念入りに見張った。しかし、航空機はよく発見したものの敵船はあまり発見できなかった。12月18日、レイポンは煙を発見するが、よく観測してみると相手は病院船だった。病院船を見送った直後、北緯14度08分 東経118度03分 / 北緯14.133度 東経118.050度 / 14.133; 118.050の地点でレイポンのレーダーは複数の目標を探知。戦闘配置を令して目標を追跡し、日付が12月19日に変わった直後に魚雷を6本発射。直ちに反転して魚雷を3本発射し、やがて閃光が見えたものの戦果はなかったと判定された。その後、レイポンはアメリカ軍の上陸予定地点であるリンガエン湾を偵察し、1945年1月4日に針路をサイパン島タナパグ港(英語版)に向ける。2日後に寄港地はグアムアプラ港に変更され、1月10日に到着した。1945年1月21日、レイポンは56日間の行動を終えて真珠湾に帰投。4日後にメア・アイランド海軍造船所に回航された。1月31日に到着し、オーバーホールに入る。4月22日、オーバーホールが終わったレイポンは真珠湾に到着し、1カ月間滞在した。
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第6、第7の哨戒 1944年9月 - 1945年1月
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「ホー (潜水艦)」の記事における「第6、第7の哨戒 1944年9月 - 1945年1月」の解説
9月15日、ホーは6回目の哨戒でカブリラ (USS Cabrilla, SS-288)、アスプロ (USS Aspro, SS-309) とウルフパックを構成しルソン島方面に向かった。10月7日未明、ホーは北緯17度30分 東経119度52分 / 北緯17.500度 東経119.867度 / 17.500; 119.867のルソン島ビガン西北西55キロ地点でタマ28船団を発見。魚雷を4本発射し、うち2本が船団先頭の輸送船に命中してすさまじい爆発を起こした。ホーはさらに魚雷を3本発射し、1本を中型輸送船に命中させて撃沈した。この攻撃で陸軍輸送船マカッサ丸(南洋海運、4,026トン)を撃沈したとされた。翌10月8日未明には北緯17度42分 東経117度55分 / 北緯17.700度 東経117.917度 / 17.700; 117.917の地点で別の輸送船団を発見し、船団後方の2隻の輸送船に対して魚雷を6本発射、1本が命中したと判断された。同じ日の夜には北緯18度30分 東経116度15分 / 北緯18.500度 東経116.250度 / 18.500; 116.250の地点でマタ28船団を発見し、船団先頭の2隻の輸送船に対して魚雷を6本、約40分後の23時25分に別の大型輸送船と護衛艦に対して魚雷を5本それぞれ発射。魚雷は23時25分の攻撃による4本のうちの1本が陸軍輸送船湖北丸(大阪商船、2,578トン)に命中して撃沈した。10月22日、ホーは37日間の行動を終えてフリーマントルに帰投。艦長がマイルズ・P・レィフォ3世少佐(アナポリス1938年組)に代わった。 11月23日、ホーは7回目の哨戒でフラッシャー (USS Flasher, SS-249)、ベクーナ (USS Becuna, SS-319) とウルフパックを構成し南シナ海に向かった。12月2日未明、ホーはレーダーにより目標を探知するが、その方角を観測すると、その目標は「セントエルモの火を発していた」1,500トン級タンカーであった。明け方近くに南緯06度32分 東経111度49分 / 南緯6.533度 東経111.817度 / -6.533; 111.817の地点で魚雷を4本発射し、うち2本が命中したと判断された。30分後にもう3本発射したが命中しなかった。12月22日には、北緯11度01分 東経109度30分 / 北緯11.017度 東経109.500度 / 11.017; 109.500の地点で大型タンカーに対して魚雷を3本発射したものの、命中することはなかった。1945年1月1日朝、ホーは北緯10度25分 東経114度20分 / 北緯10.417度 東経114.333度 / 10.417; 114.333にある南鑰島に対して3インチ砲と40ミリ機関砲による艦砲射撃を実施した。1月13日、ホーは50日間の行動を終えてフリーマントルに帰投した。
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