第6、第7の哨戒 1944年12月 - 1945年8月
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「バットフィッシュ (潜水艦)」の記事における「第6、第7の哨戒 1944年12月 - 1945年8月」の解説
12月30日、バットフィッシュは6回目の哨戒でアーチャーフィッシュ (USS Archer-fish, SS-311) 、ブラックフィッシュ (USS Blackfish, SS-221) とウルフパックを構成しルソン海峡、南シナ海方面に向かった。この頃、フィリピンの戦いで敗走を重ねていた日本軍は、ルソン島に残っていた陸海軍パイロットを日本国内に退却すべく、駆逐艦や輸送機での救出作戦を展開していた。しかし、1月15日の時点でまだ約1,000名のパイロットや整備兵などがルソン島北部のアパリ(英語版)近辺に残留しており、制空権も奪取されて駆逐艦や輸送機による救出は困難となっていた。そこで次の手段として潜水艦による救出作戦が行われることとなり、第六艦隊司令長官の三輪茂義中将は、2月4日付で潜水艦による輸送作戦を命じた。第一弾として呂46が救出に成功したが、この時点で作戦の手の内は何もかもがアメリカ海軍に探知されていた。バットフィッシュらは続く潜水艦を撃沈すべく、ルソン島北部沿岸を哨戒した。2月11日19時15分、バットフィッシュはレーダーで目標を探知した。1時間後、潜水艦と思われる艦影を発見。しばらくすると潜航し、30分後に浮上した。バットフィッシュはレーダーを頼りに目標に接近し、22時10分に魚雷を4本発射。魚雷が命中した潜水艦は吹き飛び、瞬時に轟沈した。これが呂112の最期であり、撃沈位置は北緯18度53分 東経121度50分 / 北緯18.883度 東経121.833度 / 18.883; 121.833と記録されている。バットフィッシュは浮上した後、近くに不時着水した味方パイロットの捜索を行った。その最中の2月12日1時55分、バットフィッシュのレーダーに再び目標が探知された。バットフィッシュは前回と同じくレーダー観測で目標に近づき、明け方近くの4時49分に、一度潜航した後再び浮上した潜水艦に向けて魚雷を4本発射。魚雷1本が命中した潜水艦は爆発。大きな黄色の火の玉と火炎が周囲を明るくし、潜水艦は轟沈した。これが呂113の最期で、撃沈位置は北緯19度10分 東経121度25分 / 北緯19.167度 東経121.417度 / 19.167; 121.417と記録された。バットフィッシュは潜水艦撃沈を司令部に報告。ほどなくして太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥から祝電が送られてきた。3月3日、バットフィッシュは61日間の行動を終えて真珠湾に帰投。オーバーホールのためにサンフランシスコのハンターズ・ポイント海軍造船所に回航された。オーバーホール中に艦長がワルター・L・スモール(アナポリス1938年組)に代わった。 6月26日、バットフィッシュは、7回目の哨戒で日本近海に向かった。この頃には日本の艦船は激減しており、残された艦船も多くは燃料不足や機雷封鎖によって港湾に封じ込められ、極わずかな艦船のみが外洋で行動していた。バットフィッシュはこの哨戒ではわずかに残された目標にも遭遇しなかったが、7月24日夕刻には屋久島の陸上施設に対し、5インチ砲による艦砲射撃を行った。バットフィッシュは洋上で8月15日の終戦を迎えた。8月26日、バットフィッシュは58日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。
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