第6、第7の哨戒 1944年6月 - 1945年8月
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「スティールヘッド (潜水艦)」の記事における「第6、第7の哨戒 1944年6月 - 1945年8月」の解説
6月17日、スティールヘッドは6回目の哨戒でハンマーヘッド (USS Hammerhead, SS-364) およびパーチー (USS Parche, SS-384) とウルフパックを構成しルソン海峡方面に向かった。7月8日夜、スティールヘッドは北緯18度05分 東経120度08分 / 北緯18.083度 東経120.133度 / 18.083; 120.133の地点で30トン級の小舟に対して機銃掃射を行った。7月30日から、ハンマーヘッドとパーチーが盛んに目標を探知し、翌7月31日未明、スティールヘッドはルソン島沿岸に向かうミ11船団を発見した。3時30分にパーチーの攻撃でタンカー光栄丸(日東汽船、10,238トン)を撃沈したあと、3時40分にスティールヘッドが北緯18度57分 東経120度50分 / 北緯18.950度 東経120.833度 / 18.950; 120.833の地点で、艦首と艦尾の発射管から魚雷を計10本発射。1隻の輸送船に1本が命中するのを確認したが、艦尾発射管からの魚雷は成果を挙げなかったとした。スティールヘッドはパーチーと連絡を取り合って新たな目標を探し出し、最初と二度目の攻撃から1時間経ってから三度目と四度目の攻撃で魚雷を4本ずつ発射し、爆発をいくつか確認する。パーチーからは「4隻の輸送船が沈んだ」との報告もあった。スティールヘッドの攻撃は以上で終わり、朝方には南の方角に逃げていくミ11船団を確認した。ミ11船団に対する攻撃で、スティールヘッドは最初の攻撃で1万トン級タンカーと7,500トン級輸送船各1隻撃破、二度目の攻撃は撃破した7,500トン級輸送船を攻撃も失敗、三度目の攻撃は1万トン級輸送船撃沈、最後の四度目の攻撃では5,500トン級輸送船の撃沈を報じた。のちに陸軍輸送船扶桑丸(大阪商船、8,196トン)を撃沈して陸軍輸送船だかあ丸(日本郵船。7,169トン)を撃破したと認定された。陸軍輸送船吉野丸(日本郵船、8,990トン)の撃沈は、パーチーも吉野丸に魚雷を命中させたと主張してきたため、吉野丸撃沈はスティールヘッドとパーチーの共同戦果となった。8月16日、スティールヘッドは60日間の行動を終えて真珠湾に帰投した。 スティールヘッドはサンフランシスコに回航され、ハンターズ・ポイント海軍造船所でオーバーホールに入ったが、オーバーホール中の10月1日に火災事故が発生し、焼けた司令塔を交換する大きな損傷を受けた。オーバーホールが終わったスティールヘッドは、1945年4月16日にサンフランシスコを出航し真珠湾に回航された。艦長がロバート・B・バイネス少佐(アナポリス1938年組)に代わった。 5月13日、スティールヘッドは7回目の哨戒でトラック諸島方面に向かった。トラック方面でパイロット救助支援任務に費やした後、6月8日にグアムアプラ港に寄港して補給を行い、今度は日本近海でB-29クルーに対する支援任務を行った。この哨戒では、魚雷はついに発射しなかった。その代わり、7月1日に北緯33度23分 東経135度47分 / 北緯33.383度 東経135.783度 / 33.383; 135.783の潮岬近海で2隻の50トン級トロール船を浮上砲戦で撃沈し、1隻の50トン級ジャンクを破壊した。8月3日、スティールヘッドは74日間の行動を終えてミッドウェー島に帰投。8月15日の終戦も同島で迎えた。
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